ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

吉田修一著『怒り』を読んで(3)

 自分たちに「何かが変えられんのかな」と自分で行動が起こせない沖縄の高校生、自分の娘が不憫すぎて幸せになることさえも諦めたいと感じる父親の心情、同性愛という公にし難い関係性を理由に放任主義を装う若者の強がり、物語上で描かれる登場人物たちには、相手に不信を抱く前から自分が取るべき態度に迷っていた。

 その迷いに感情が溢れ出しそうになりながら、物語の中から「どうすればいい?」と彼らが自分に問いかけてくる。「自分を信じさせてくれないか」と嘆く様子は、ただただ哀れにも見えた。そんな彼らに「動じるな」という想いを抱く自分は、とても軽薄なのかもしれない。当時者の感情を抑え込むことは、相手の気持ちを否定することにも近い。

 しかし、相手への信頼関係が深められない故に、せっかく築いてきた関係を壊すことが、自分には正しいとは思えなかった。たとえそれが本当に殺人犯であったとしてもだ。人生のめぐり合わせ、不遇な社会状況も要因のひとつになろうが、結局、いろんな理由をつけて何かしらの「否」や「非」を見つけて、諦められる理由を探すことで得られるものは、自分に都合のいい解釈ばかりだ。

 そりゃあ、信頼していた相手や世間に否があれば、怒りや喪失感の感情も湧くだろう。でも、その「否」を見つけ出したのは自分自身でもある。物語では、相手は彼らを疑うことなく、徐々に距離を縮めようとしていたのに。

 それまでは互いに明かそうとしないし、踏み込まないようにもしていた領域に踏み込もうとして、一定の距離感を保ちながら上手くいっていた関係は破たんする。打ち明けたくない真実を晒すことを強要されれば、平然としていられる方がおかしい。たとえ殺人犯に疑われずとも疎ましく感じると思う。自分の過去を振り返っても、疑う内容に程度の差はあれど、似たような経験はある。

 知らぬが仏と平然を装うこともできるのに、その破たんのリスクを冒してでも相手を知ろうとし、信じる価値を確かめようとしてしまう理由は何なのか。どうして無条件に相手を信じることができないのか。何をどこまで知れば相手を信じることができるというのか。信じた先に得ようとしていたことは何なのか。それは互いの意向を汲むことを、つい疎かにしてしまうことに原因がありそうだ。

 恋愛関係に限らず、仕事や友人の関係を築こうとするとき、「こうあってほしい」「こうあるべきだ」と相手に抱く理想像は、自分が勝手につくり上げた偶像に近い。他人である相手に、自分の理想像など伝える機会がなければ知る由もない。独善的に追い求める理想像は、報われることのない信念なのだと思う。一方で、相手の意向を誤解することなく把握するのもなかなか難しい。失敗を恐れて避けていれば、そりゃ疎遠にもなるのも無理はない。

 相手を信じることってのは、互いの理想とする世界像をすり合わせることにあるのかもしれない。すり合わせていく先に上手くいく保証はない。でも決裂しそうになれば、折り合いをつければいい。一緒に過ごしたいと思うならば、互いの心情をはぐらかす必要はないし、そうできないことの否を責める必要もない。信じるべきことは自分たちの過去に何をしてきたかではなく未来に何をするかにある、と自分は考える。

 いかにも能天気な考えにも見られそうで、この感想文を読まれることにビクビクしている。でも、創作物ではなく現実の世界で、自分はハッピーエンドが見たいのだ。なんの偶然かはわからないが、自分と出会った人たちが我慢を強いられていれば、なるべく一人きりにさせることなく、いろんな方法を採りながら分担していければと思う。きっとウザがられるだろうが、相手を傷つけてそれっきりの関係になるよりはマシだ。この物語を読んで、その想いが一段と強くなった。想ったところでできるわけではないけれど。それは今後の課題にしたい。(おわり)

 感想文は以上です。小説の内容にあまり触れることなく、自分の感想をダラダラと書き連ねてしまった。伝わるかどうか不安で仕方がないが、伝われらなければそう言っていただけると、あなたの意を汲むことができて幸いです。では。