#ボタニカルホモ日誌 20200517 #豊華さんと紫枝さん
薔薇は育てるのに手間がかかるのだ、と、子供のころから母に聞かされていたので、好きな花ではあれども、自分で育てる気にはなれないでいた。
具体的に何が手間かというと、虫がつきやすく、肥料も適切なタイミングで適切な量をあげないと、すぐに病気になって枯れてしまうらしい。
実際、うちの母も近所を散歩しながら、奇麗に咲いている薔薇があれば目をつけておき、その薔薇の育て主が剪定作業をしているころを見計らったころに伺っては、枝を分けてもらっていた。
しかし、もらった枝を挿し木にして育ててはみたところで、上手く育ってくれることは少なかったように思う。
母もマメに世話をする方ではなく、雑に育ててもなお成長してくれる薔薇を愛でる傾向にあり、薔薇からしてみれば暴君そのものに見えるだろうタイプ。
挿し木をした薔薇の枝もちゃんと育たないことが多いのも、いまにして思うと当然といえば当然なのである。
そんな母に育てられた、というか、勝手に育ったうちの庭の薔薇は、挿し木をされてから30年以上経っても元気でいる。
その立ち姿は粗野な育ちを現しているかのようで、実に野性的で野太く、大輪の花をいくつか付けてくれるが、その数はあまり多くはない。
そんな図体はデカいくせに大して花を咲かさない薔薇に対しても、母は今年は肥料が足りなかったみたいだの、肥料をあげたけど遅すぎたみたいねとか、雨が多いせいで病気になってしまったね、などと毎年のように言い訳をしながら、適当に世話をしていた。
そんな様子を近くで見てきたこともあり、根っからの面倒くさがり屋で、しかもケチな自分の性分には、あまり手を出してはいけない植物だと心に決めてきたのだ。
肥料代や農薬代もかさむし、何より薔薇の苗はそれ自体が高かかったりして、ミニバラなら数百円なのだけど、好みの薔薇苗を買おうとすると、数千円から万単位の値段がついている。
薔薇の世話に慣れていない自分が買ったところで、わざわざ大金を出して枯らすようなものなのである。
近所の家から枝を分けてもらえればタダではあるが、この東京で軒先で薔薇を育てている御宅は実に少なく、さらに散歩中に知り合いになれる機会はもっと限られるから難しい。
なにより多年草の植物が枯れるのは、何度経験したって慣れることはないんじゃないかと思う。
そんなふうに長年の間、禁じ手にしてきた薔薇の栽培に、一昨年の冬、とある品種に出会ったことから、ついに手を出してしまったのである。
それは、最寄りの花屋であるオザキフラワーパークの初売りに出向いたときのこと。
駐車場近くに設けられた養生中の苗売り場の隅の隅に、見覚えのある札をぶら下げて数個だけ置かれていた。
ゴールデンウィークを過ぎた頃にも見かけた苗で、その売り文句が気にはなったのだが、薔薇に手は出さないというルールを頑なに守って買いはしなかったのだった。
初夏のころには新苗らしく、若々しく細い茎に柔らかい葉を茂らせていた苗だったが、買われ時を逃して売り残ってしまって、すべての葉を落として一本の茎を直立させた状態である。
冬の寒空の下で、見た目は枯れ木そのもので、素人目には育ってくれる気はしない。
けれど、初夏のころに目にしてからずっと気になっていた売り文句を再び思い出して心が惹かれてくる。
しかも初売りのセールで2割引きだったことに後押しをされて、ついに長年守ってきた禁じ手を破って購入したのであった。
そこまで惹かれる売り文句とは何かというと、「食用の薔薇」だったということだ。
売られていたのは、一季咲きで八重の花で咲く「豊華(ほうか)」と、四季咲きで一重に咲く「紫枝(ずず)」の二種類。
エディブルフラワーの苗は、インスタグラムの流行と合わせて増えてきてはいたものの、薔薇の類で食用の品種をそらまでずっと見たことはなかった。
インターネットで検索すると、もともとは中国の玫瑰(メイクイ)という地域で栽培されている品種で、香りがとても強く、ダマスクローズ並みの強香を持つそうだ。
乾燥させた花は漢方茶として売られ、花を蒸留して採った精油は、香水の原材料として高値で取引されているらしい。
そもそも薔薇の品種はイギリスや東欧のものが多く、中国の品種って点だけでも珍しいのだが、食用にできる薔薇なんて食べたことも見たことがない。
どんな味がするのだろうかと好奇心は盛り上がるばかり。
売れ残った苗と新年早々に再会できたのもなにかの縁であろう、と自分で自分に言い聞かせて二種類とも購入することにしたのだった。
枯らしてしまう可能性も頭の片隅で警告はしていたのだが、新春の浮かれた気分と好奇心の方が勝ってしまったのである。
しかし、初心者の行き届かない世話にも関わらず、翌春も翌々春もたくさんの花を咲かせてくれた。
この食用の薔薇たちは原種の野ばらに近い品種で、肥料は少なめを好み、虫のつきにくい丈夫な葉と茎へと育ってくれる性格のおかげで、考えていた以上に世話が楽だった。
昨シーズンは株も大きくなり、自分一人だけでは手に余るほど咲いてくれので、乾燥させた花は元ご近所さんにもおすそ分けをするほどだった。
反省点としては、剪定と植え替えの時期が遅かったせいか、苗が若干いじけてしまって、シーズンの後半は黒点病の葉が目立ってしまったことである。
次の春には丈夫な新芽を伸ばしてもらおうと、年が明けたらすぐに枝の剪定と植え替えをしようと考えていた。
けれども、そんな自分の都合などお構いなしで、今年の冬は過去にないほどの暖冬で、薔薇の苗は葉を落とすことなく年末を迎えてしまった。
葉を落とし切ったのは年を越してすぐのころで、2月を迎える前に固い新芽もつけ始めてしまっている。
どうやら休眠期を経ずして、芽をつけてしまったようだ。
(1月ごろ剪定前の豊華の枝には、産毛のように細かくて固い棘があるので白茶けて見える)
(枝の先端には固い新芽がついている。新芽は日光の熱を集めるために赤い色をしている)
(こちらは紫枝(ずず)の枝。文字通り赤紫色の枝をしており、棘は少なくてツルっとしている。枝が細いのでピントが合わない)
新芽が膨らんできてしまう前に植え替えなければ!と慌てて、ホームセンターで土を買ってきて、植え替えの作業をしやすくするための枝の剪定をする。
バラは新芽の伸びた先に花をつける植物なので、昨年に伸ばした枝を半分ぐらいの長さに切り戻すのが定説とされている。
手練れの園芸家は枝の伸び方を見ながら大胆に切り戻すのだが、いまだペーペーの自分には、新芽がついている枝を切るにはなかなかの覚悟必要だった。
細い枝を残したところで丈夫な新芽が伸びて来ないのにも関わらず、芽が吹く様子もない枝を残して剪定する勇気もなく、結果的に甘めの剪定になってしまった。
昨年の失敗が思い出されて急に不安になってきたので、剪定した枝の切り口を見つめて反応をうかがってみるものの、薔薇の方は何も言ってはくれない。
休眠期だから仕方はあるまいと自分で自分を慰めてみるけれど、そもそも植物は聞いたところで何も言ってはくれないのである。
けれども、人間の方がリアクションがあってわかりやすいかというと、相手のリアクションで諮ったところで失敗すれば後戻りはできないのだから、モノを言わない植物とそう大差は無かったりもする。
春にどんな新芽を伸ばそうとも受け入れなければ。
思うことは、かの人に対することと同じなのである。
(剪定後の豊華。ビビってしまって枝先から1/3の長さで切り戻すので精一杯だった)
植え替え時には、株本の土を半分ほど落としながら古い根を切り、新しい土を入れた鉢に戻す。
根も1/3~1/2ぐらいは切り戻したほうが新しい根っこが伸びやすく、土中の酸素を吸収しやすくなるんだそうだ。
コガネムシの幼虫に根を食い荒らされている心配もあったが、姿は見当たらなかったので少しホッとしながら、株周りの土を落としながら根をほぐす。
細い根っこばかりが目立つのは、昨年の黒点病にかかってしまったせいだろうか。
今年は太い根を張ってくれるといいのだけれど、と祈りのような期待を込めつつ、新しい土を入れた鉢に戻す。
薔薇は満足してくれているだろうか。
同じ趣味の友達でもいれば相談できたりするのだろうが、確かめようのない相手の本音っていうのは、本人以外に相談したところで気休めにしかならない気もしてくる。
ほんと植物との付き合いは人間と似ている。
植え替えてからの数週間は、ちゃんと新芽を伸ばしてくれるかどうか気がかりで、時間があればベランダに出て、豊華と紫枝の枝の様子をうかがうことを繰り返していた。
ラジオやインターネットを眺めると、世間では新型コロナの流行の様子に神経をとがらせていたが、うちのベランダでは鉢植えたちが無事に春を迎えてくれるかどうかばかりが気がかりで仕方がない。
植物の成長のスピードはゆっくりなので、しょっちゅう観察したところで、パッと見た感じは先っき見た感じと同じだし、昨日見た時の様子との違いを見つけるのは難しいのではあるが。
けれども2月の暮れのある晩を境に、赤くて固かった新芽が柔らかそうな黄緑色の葉を膨らませていた。
(豊華の新芽。枝の先端から膨らむのは日光によく当たるかららしい)
(紫枝の新芽はこれからだけれど、ぷっくりとしてきている。)
新芽が萌え出し始めてからは本当にあっという間で、2週間後には若葉の間から新しい茎が伸び始めてきた。
日に日に大きくなる葉は厚く、緑も濃くなってきて丈夫そうに見える。
(豊華の若葉。葉脈が深く溝になっているのが特徴。新しい茎の元がほんのり紅いのは茎を伸ばすためのエネルギーを蓄えているからだろうか)
(紫枝の若葉。豊華の葉より葉脈の溝は浅く、艶はないが薔薇らしい葉の形をしている)
(さらに1週間後の豊華の若葉。もう若葉ではないかも。)
(紫枝の若葉の中央には花芽を出し始めている。)
3月の末ごろには、枝全体に若葉を茂らせるようになって、枯れ枝だけの殺風景な立ち姿から、まるで別人のような姿になっていた。
新芽が見当たらなかった枝にも、新たな芽をつけ始めているのも見える。
今年の植え替えはうまく行ったと、もう安心しても良さそうだ。
この頃ぐらいには会社から在宅勤務の指示が出て、ずっと家にいるようになったこともあり、仕事の憂さが溜まるとベランダに出ては、鉢植えたちの様子を眺めるようになった。
過保護に鉢植えの世話をしているようで、世話をされているのは自分の方だったと思う。
(3月28日の豊華、広げる葉も多段構成になってくる)
(3月28日の紫枝。葉をのびのびと伸ばしている姿がとても優雅だ)
(4月4日の豊華。若葉の中央から花芽を伸ばしはじめた。)
(4月4日の紫枝。若葉の間に蕾が見える。)
ひとつの花芽が伸びはじめるのを見てからは、さらに怒涛のスピードで他の枝も成長しはじめて、数日後には立派な蕾をいくつもつけていた。
そして、蕾の萼片の隙間からは深紅の花びらの色が見えるように。
(4月11日の豊華の蕾。まだ固そうではあるけれど、萼片の隙間から除く花びらの色が鮮やかで美しい)
(4月11日の紫枝の蕾。ひとつしかなかった蕾が4つに増えた)
この間までの暖冬だった冬とは違って、この春先は急に冷え込んだり、冷たい雨が降ることもあったが、豊華も紫枝も特に問題なく過ごしてくれた。
剪定した後に感じていた不安は杞憂だったけれど、その分、薔薇の成長する様子に元気づけられる思いがしてくる。
(4月20日、雨露に濡れた豊華。蕾が膨らむために茎をのばし始めている。)
(4月20日、雨露に濡れた紫枝。玉のように雨露が葉の上に転がる様子が美しい。)
新芽の成長するスピードに比べて、蕾をつけてから花を咲かせるまでは時間がかかったように思う。
やはり花を咲かせるには、相当なパワーが必要なのだろうか。
花びらが開き始めるまで、さらに1週間の時間を要しはしたが、蕾はしぼむことなく膨らみ続けてくれた。
(4月26日の紫枝。蕾から花びらがほころび始めるのを発見する)
(4月26日の豊華。花びらの塊の先端が開きかけている。)
もうちょっと時間がかかるのかなぁ、と悠長に構えていたら、二日後の朝に起きて窓の外を見ると「蕾」が「花」に変化していた。
開ききったわけではないけれど、花の香りが一番強いのは開きかけの状態なので、早々に花を摘んでしまうことにする。
ダイソーで買った干物用ネットに、摘んだ花を並べ、日陰に吊るして乾燥させる。
今年はどれだけ咲いてくれるだろうか。
春になる前の不安はどこかに吹き飛び、これから咲く花の収穫量を期待すると心が躍ってくる。
相談したいことは他人と共有したくはなるのに、良いことは独り占めにしたくなるのは、本当に嫌な性格をしていると我ながら思う。
いや、いっつも独りでいるからこそ、幸せは自分だけのものにしたいと思うのかもしれない。
どちらにしろ、寂しい奴には変わりがないんだけれども。
(4月28日の豊華。花が完全に開いてしまうと香りを放散してしまうらしい)
(収穫した豊華(奥の2輪)と紫枝(手前の一輪)。)
前日には開く気配さえなかった蕾が、翌日になると花が完全に開いてしまっていた。
この日から連日の開花と収穫ラッシュが始まる。
(4月29日、満開になった豊華。周囲は薔薇のにおいが漂う)
本当は開きかけの絶好のタイミングで収穫したいのだが、お構いなしに蕾ごとに各々のタイミングで咲いてくれる。
起床直後にベランダの様子を見て、水やりと同時に昨日との変化を探し、在宅勤務の合間合間に開花の状態をうかがっていた。
朝は蕾だったとしても、昼過ぎには満開に開いてしまっていたりもする。
あまり太陽や気温の高さを気にしている様子はなく、ランダムに咲いているように見えるが、どういうメカニズムがあるのだろうか。
(このぐらいに花が開いたタイミングが望ましい)
(満開になってしまった紫枝の花。一重で大きい花びらが特徴)
(二つ同時に咲いた豊華の花。順番に咲けばよかったのに、かなり窮屈そう)
(満開になった紫枝の花によって来た虫。アブラムシのような外注の類は、花の匂いが苦手で寄ってこない)
そのうち、片手では持ちきれないほどに咲く日も出てきて、そのうち、両手でも持ちきれなくなるほど花が咲くようになった。
新型コロナの流行から在宅勤務をすることになって良かったことは、毎日家にいるおかげで、良いタイミングで花を摘むことができたことだろう。
以前は帰宅後や起床後に、満開になって散りかけている花を収穫することも多かった。
家での仕事はストレスでしかなかったけれど、物言わぬ隣人のおかげで、いい息抜きができているようにも思う。
ご覧のように、花の見た目は、食用として育てられてきた品種なので、お世辞にもよろしくはない。
観賞用の薔薇の花びらにはワックス成分が豊富で艶とハリがあるのだけれど、食用のこの薔薇の花びらは薄くて艶もないし、形も整ってはいないように見える。
しかし花びらにワックス成分がほぼ無いおかげで、食べても苦みが無く、口に残る感じもないのである。
実際に生のまま食べてみると、噛みしめるたびに薔薇の香りが鼻腔を突き抜けて清々しい。
この香りの成分に漢方の効果があるらしく、中国では主に胃腸薬として二日酔いのときなどに用されるそうだ。
花の姿を愛でる以外にも楽しみ方があるのは、なかなか付き合いがいのある薔薇の方だと思う。
(ぼってりと咲く満開の紫枝の花。東洋らしい姿といえば東洋らしい姿かもしれない)
(収穫が遅れた豊華の花。咲いてから時間が経ってしまって、色が抜けかけている)
(咲いたばかりの花びらは、まんべんなく色が濃い。)
干物用のネットを3ついっぱいにしたところで、蕾の数が少なくなってきた。
第一陣の開花期間がもうすぐ終わりになるようだった。
4月28日から咲き始めたわけだから、およそ2週間弱の開花期間だったのだろうか。
咲いてくれるまでは本当に心配だったけれど、豊華も紫枝も上機嫌で過ごしてくれたようで、心の底からホッとしてくる。
(5月11日、開きかけの花を摘んでしまうと、ほぼ蕾がなくなった状態の紫枝)
(5月13日、最後の花を収穫した後の紫枝。奥にある豊華はまだいくつか蕾を残している)
蕾がなくなった株の姿を見ていると、少し寂しい気もしてくるけれど、その一方で次々と花を咲かせてくる間の忙しなさがなくなって、自分の気持ちも落ち着きを取り戻せたように思う。
けれども、これで終わりってわけではなく、収穫後の花芽の元を見てみれば、ちゃんと次の花芽を萌ゆらせて準備を始めている。
豊華も紫枝も、真夏の暑さを迎えるまでは、今年も何回か咲いてくれるようだ。
(5月13日、紫枝の新しい花芽。花をつけたひとつ下の葉の付け根から芽を出している)
(これも紫枝の新しい花芽。今年の春から伸びた緑の枝から分枝して、新しい花芽が伸びる)
(5月13日、豊華の新しい花芽。新しい枝の棘は柔らかそうな色をしてはいるが、刺さるとまぁまぁ痛い)
(5月15日、豊華の新しい花芽。陽に当たろうとして真上に伸びる)
(5月15日、紫枝の新しい花芽。薄くてしなやかな若葉が陽の光を透かす様子がとても美しい)
(5月17日、夕日を透かす豊華の新芽)
(5月17日、日暮れ時の紫枝の新芽。数日前まで小さかった芽もシュッとしてきた)
(最後に収穫した豊華の花と、初期に収穫して乾燥させていた豊華の花。だいぶ小さくなる)
次の開花ラッシュを迎える前に、収穫した花たちを完全に乾燥させなければ。
うかうかしていると、すぐに梅雨になって湿気てしまう。
しかし予想以上に収穫することができた。
まさか干物用ネットが3つ分もいっぱいになるほど咲いてくれるとは。
新型コロナの騒ぎがなければ、元ご近所さんにおすそ分けをする予定だったのだけれどどうしたものか。
買えば高い代物だというのに、今年は一人で持て余すのはもったいない。
仲のいい現ご近所さんがいないことが問題でもあるのだが、いまさら知り合うには遅いし。
そうなることは覚悟したうえでこの街に来たのだから仕方がない。
ふと、来年もこの街で咲いてみますか?って、豊華と紫枝に念を送って尋ねてはみたのだけれど、案の定、答えが返ってくることはなかった。
次の開花の準備で忙しいところなんだ、尋ねた自分が悪いのだから仕方がない。
そもそも話し合うべき相手は別にいるのだ。
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