ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

吉田修一著『怒り』を読んで(2)

 この物語は、とある猟奇的殺人事件を契機に、よくは知らないけれど好意を寄せていた人物に対して、不信を抱いてしまうことから始まる。最初はちょっとだけ違和感を感じるぐらいで気にも留めないぐらいだったのが、相手を信じようとすればするほど、疑いが深まっていく様子が、登場人物の生い立ちやその時の生活状況とを絡めて描かれている。かける疑いは「彼が殺人犯なのではないか」ということだ。

 物語を読み進めて行く中で、作者に突き付けられた命題は「信じるとは何か」だと思った。この作家の初期の作品である『パレード』という小説の命題とどこか通じるものがあった。『パレード』では、周囲の人間を信じることや疑うことさえも、回避してしまう人物たちが描かれる。同じように、彼らの住む地域で連続通り魔事件が起こるものの、身近な人間が犯人かもしれないとは考えようともしない、そんな物語だった。

 いまが楽しけりゃ何でもいいというか、その関係性に信頼感を深める必要はないし、それをわざわざ壊す必要もない。その場の空気を保つためには、相手が通り魔の殺人犯であっても、互いの本音を表に出してはならない。そういう暗黙の了解みたいなものを読んで、それにはそれでゾッとはしたけれど、気味が悪いと思う一方で、そういう飄々とした態度を取れるのが少しカッコよくも見えた。

 『怒り』の方では、少なからず好意を寄せていた相手に対して、信じることは損か得かとか、疑うことが善か悪かについて、登場人物が自問自答しながら苦しむ様子が描かれていた。心地よい距離感の関係を築いた後、さらにもう一歩踏み込みたいと思ってしまったが故に、苦しい思いばかりをする登場人物たちの様子は、『パレード』に描かれた人物たちや、自分自身も知っていながら避けていた未来だと思った。

 特定の相手を心の底から信じるためには、何段階かの手続きというか、段取りを踏む必要があるようで、初対面から絶大なる信頼を寄せることはない。かと言って、相手を疑ってるわけでもない。疑っているという態度は見せないというか、信頼している振りをしているのかもしれない。そういう態度を取ってしまうことは、自分にもよく身に覚えがある。

 けれども、いざ相手を信じたいとか、信じなければと思った途端に、その相手が信じる価値のある人間か否かを見定めようとする。恋は盲目なんてまるで妄言かのように、今後一緒に過ごしていきたいという欲求を得ると、願望ではなく覚悟を決めるための確証を目を皿のようにして探してしまう。

 この物語に登場する人物はみな、相手を信じるための確証を探すために、信頼したいと思う人間を逆に疑う自分への罪悪感に苛まれる。相手を逃走中の殺人犯なのではないかと疑うのだから無理もないのだが、ひとりその不信を抱えながら、あるものは真実を確かめに過去を探り、ある者は平然を装いながら忘れようとする。

 その過程のヒリヒリとした心理描写を読みながら、いまこの状況の彼らがどうすればよいだろうかと、もし自分に相談してきたとしたら、自分はなんと答えよう。この物語を読みながら、そう考えるたびにページをめくる指が止まった。

 思い悩む物語の中の彼らに自分の考えなど意味はないのはわかってはいる。けれども、いつも彼らに対して湧いてくるのは「動じるな」という想いだった。(つづく)