ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

おしのの映画鑑賞日記-『ズートピア』を観て(1)

こんばんは。
初めまして、あたし、しの と申します。神田で旦那様と蕎麦屋を営んでおります。

 

いきなりこんなことを言うのもなんだけど、あたし、江戸時代から30年前にタイムスリップしてきちゃった人なんです。

細かい話はまた今度するけど、江戸の神田にあった着物問屋で丁稚奉公していたころにね、15歳のころに大地震があって、私は瓦礫の下に埋もれちゃって、あーもーダメだ、と思って気を失ってしまったんだけど、気がついたら水道橋にある某大学病院の病室にいてさ。それから、蕎麦屋の跡取り息子だった旦那さんに見初められちゃって結婚したのが、だいたい25年前。

もう現代で過ごした時間の方が長くなるし、もう江戸での生活の記憶なんて断片的だったりするから、「パーソナリティ」なんて横文字も使うわけ。

時折、いつかは江戸に戻ってしまうことがあるのかしら、って考えて不安に思うことがあるけど、その度に「ちょっと!!!自分!!厨二病すぎるわwww」とか思っちゃうぐらいには、普段は過去のことを気にしてないというか、お店のことで精一杯やってる感じなの。

 

さてさて、前置きが長くなってしまいましたね。
先日、ズートピアを観たのでね、その感想を書きます。あらすじの紹介は面倒だから、映画の公式HPを見てもらってくださいませ。

 

あたし、この映画を観ながら、ずっと「自分は何を目指して生きてきたのかしら?」ってことを考えてたのよ。

「努力は必ず報われる」とか因果応報の話ではなくて、目標に向かって努力していると失敗もするし、その目標自体が間違っていたことに途中で気づくこともあって、その度に自分で定めてたものって揺らぐじゃない?。

自分が正しいと思ってやったことで、報われることもあるし、逆に人を傷つけるなんてこともあるし。何事にも一長一短とか、二律背反するもんでさ。一概に何が正しいとは言い切れないことばかりよ。

お店でお客さんに対応している時もそう。このお客さんには歓ばれる気遣いも、別のお客さんには疎ましがられることがある。

やってることは同じなのに不思議なもんよね。江戸時代さながらの小粋な対応も、お客さん受けがよいものをピックアップしてるし、あくまでも今風のものでしかないの。

我ながら打算的だわ、とか思うけど、商いをしていると、自分の意思とは関係なく、選ばされてることがたくさんあるなって、よく思うの。

 

映画でも警官になったウサギのジュディも、そういう心境になっていたシーンがあってさ。

自分が描いていた理想と現実のギャップにガッカリしながらも、自分なら大丈夫!と思って理想にこだわって頑張っちゃうの。

周囲のには、自分の意志でなんとかしてやろうって、カッコつけて振る舞うんだけどね。そういう強がってしまうところ、なんかよくわかるなぁ、って思ったの。

江戸時代で丁稚してたときなんて、お店の人に随分理不尽なことを言われて、悔しい思いをしたもんだけど、あたし、いつかイイ人を見つけて独立してやるんだ!と思って我慢してたのよ。
でも現代じゃ、そこまで理不尽な目には合わなくてね。こっちじゃ楽に独立できそう〜なんて心が躍ったけど、いざ旦那様とお店をやっていると、丁稚のころの自分はやはり甘いところがあったなぁ、と思ったりもするの。
独立できるまでは!とか言って我慢してきたけど、それまでに何をやらなきゃいけないとか、独立してから苦労することはないか、なんて考えてもいなかった。
自分で自然と気づいて身に付くもんなのだろうと思ってたのよ。

でもこの考えは甘かったわ。目標を立てて結果を得るには、戦略ってのが必要なのよ。
江戸で丁稚してようが、現代で蕎麦屋の女将やってようが、自分で気づけるまで苦労を周りのせいにして、不満ばっかり言ってたんじゃないかしらと思うの。

 

(続く)