ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

おしのの映画鑑賞日記-『ズートピア』を観て(3)

※(2)の続きね。

 

この映画じゃさ、動物たちが進化して、肉食動物も草食動物も共存できるシステムが成立した社会が舞台になっているから、動物たちの悩みもあたしたちの人間社会と同じ悩みを抱えていてね。

その進化が、動物たちの努力によるものなのか、共生できるように自然と適応した結果なのかは、明確に描かれてはいないの。

生態も遺伝子も異なる動物たちが共存している社会を描いて、同じホモサピエンスが宗教や人種で諍い合う社会を皮肉ってるんだとは思う。
でも、そんなことより自分が置かれている「現状」と「将来」を前向きに考えようとするとき、「過去」って失敗例でしか役に立たないってことを改めて痛感したわ。

 

「進化」って「過去」の上に成り立つものなのか、って考えると、あたしは違うように思っているの。
普通はね、因果応報で考えがちだけど、あたしの江戸時代での経験なんて事実ではあるけど、今後のあたしの生き様を定めるものではないと思っててさ。
常に思いもしなかった新たな状況に出くわして、初めて自分の採るべき行動について考えるようになっていそうなのよね。少なくとも個々人単位の人生で、生物学的な進化論とか関係ないと思うわ。


ジュディも田舎を出て理想とは異なる現実に直面するし、ニックも現実の冷めた見方以外の視点を手に入れる過程で、苦労とか挫折を味わう羽目に遭った。
あたしもタイムスリップした時は、いきなり直面した現代に頭が真っ白になったけど、とにかく現代に馴染んでいかなきゃ!って思ったの(似たような映画もあるし、だいたい私の気持ちとか想像つくでしょ? 笑)。
こういう個人の試行錯誤って、「種の保存」とかなんて念頭に置いてなんてやってられないもんよ。

できれば、そういう痛い目に合わずとも、世渡りのスキルっていうのかしら、そういう術を身につけられたら、って思うけど、本当に現実は世知辛いわ。

 

「多様性」って言葉が表すことも、自然淘汰を伴う「進化」の考え方とは逆行してたりするとも言えそうよね。

なんでも可能な状態、ってのは、「万能感」の雰囲気をまとうけど、自分の思い通りにできるってことではなくて、すべてを受け入れることができる状態をイメージした方がよいのかもしれないわ。

「種の保存」とか「持続可能な」共同体とか、そういう観点でなくて、一人一人の生き様とできるだけ多く向き合うことが大切なんじゃないかしら。


自分の理想を叶えることは、生きるモチベーションにもなるけれど、その理想って自分が生み出したものでなくて、周囲の影響から育まれたものなのよ。
そんな適当なものを、相手にも一方的に押し付けることなんてできないし。

自分と相手のそれぞれの生き様なんて、生まれや過去の人生に何があったかとか関係ない。紋切型に決めつけることなく、相手も自分自身もどう考えているのか、受け止めるようにしないといけないの。
大事にしなくちゃいけないのは、「自分」でも「相手」でもなくて、その両方の「あたしたち」なのよ。きっとね。

 

ジュディがニックに泣いて謝ったシーンでそう思ったのよ。あのシーンは本当に泣けた。

ジュディの謝り方は心にスッと染み込むようだったし、ニックの返し方もエスプリが効いててカッコ良かった。ほんと素敵な二人だったわ。

最初は互いに一期一会で終わると思っていた出会いが、心の底から信頼し合える関係になることもあるのね、って単純に素敵だな、って思えてさ。まぁ、悲しい事件を経た上でのことってことはアレだけどね。

 

って、もうこんな時間。長く書きすぎちゃった。そろそろお店の休憩時間も終わりだから、今回の鑑賞日記も終わりにしましょ。
字幕版も吹替え版も両方見たけど、どちらもオススメだからいろんな人に見て欲しいなって思います。

観終わったら、うちのお店で蕎麦でも食べにいらっしゃいませ。神田に映画館は無いけどね!

 

追伸、

DreamAmiちゃんの吹替え、映画が始まる前は不安で仕方なかったけれど、違和感は全然なかったよ。