ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

おしのの映画鑑賞日記-『シン・ゴジラ』を観て(2)

(1の続きです。)

 

ゴジラのキャラクターやその姿の造形については、なんの文句もないわ。それはもう見事だった!
放射能を放出するところのVFXには、とっても感動したの。とても綺麗だったし。けどね、破壊行為が美しく描かれるのがね、あたし、ホントに嫌いなのよ。

それに感動するのが嫌というか、あたしってそういう破滅的な選択肢を選んでしまうこともあるのね、と思ったらさ、怖くなっちゃうのよ。

 

あたしは、感動することは常に正しいこととは限らないと思っていてね。

映画とか芸術作品って、なにか特定の世界観が再現できていると、それだけで感動できてしまうのよね。それが破壊や破滅の世界観であっても。

自分が「世界はこういうもの」とイメージする世界って、現実に目に見える形で現れるものでもなくてさ。

「そういうふうになっているもの」として、考えても無駄なものだって思ってるとこがあるの (あたしはね!他の人は知らないわよ!)。


いつも、あーだったらいいのに、こーだったらいいのに、って漠然と望む理想の世界って誰にでもあると思うんだけど、それって絶対に目の前に広がる日常とは違うものでさ。

だから、映画に描かれる架空の世界が、まるで現実のように詳細に再現されていると感動してしまうようになってるんだと思うの。「ここではないどこか」がある、って思えると、それだけで安心するところがあったりしない?

それが良いとか悪いとか、そういう話ではないんだけど、今回の『シン・ゴジラ』で描かれた世界観は、「ここではないどこか」が、いまのあたしの暮らす日常なんだ、って見せつけられててさ。とにかく圧倒された。それに何よりも物語に出てくるキャラクターはどの人も魅力的だった。

この映画を見ながら、とてつもない高揚感を味わったのは本当なんだけどさ、でもこの気持ちの高まり方はもしや危険なやつなのかも、って思ったわけ。

 

映画で描かれていたような、旧来の組織の膠着して柔軟性に欠ける構造みたいなのって、踊る大捜査線で見慣れた感じもあるしさ。それにリアリティを感じたし、それを若手が揶揄していく物語の流れも違和感はなく見られた。

けれど、硬直した組織の課題を解決できたのは、ゴジラによる破壊行為のおかげで、それをラッキーだと登場人物たちが受け止めていた様子を見てたら、なんかガッカリしちゃってね。

彼らを英雄としては見ちゃいけない、っていうか、無批判な賛辞は送っちゃいけない気がしたの。

 

スクラップアンドビルドとか、面倒になったら壊してやり直せばいい、って考え方って何なのかしら。
江戸の町もどうせ火事で燃えてしまうんだからと言って、安普請の家が多かったけど、火事を防ぐ術があったら、燃やさずに済ますべきって、いまならそう思うわよ。

資材も仕事も市場に回るから、経済的にはいいのかもしれないけど、暮らす方としては、いつ自分の住まいがなくなるかわからないなんて、随分としんどい暮らしをしていたもんだわ、って思うもの。

 

あと、映画の中では、邪魔な存在は消え去ってしまえ(できれば他人の力によって)、みたいな考え方が随所に感じられて、少し気味が悪く感じてね。あと、偉い組織で偉い立場にならないと世界を救えない、みたいな物語にもイラっとしたわ。

もしゴジラが現実の世界に出現したら、あたしみたいな市民は確かに無力かもしれないわよ。

でも現実に起こり得ることではないことで、市民の無力さと偉い立場の人間の有能さを見せつけられても、ちょっとバカにされた感じがするのよね。

 

(続く)