おしのの映画鑑賞日記-『シン・ゴジラ』を観て(3)
(2の続きです)
でもそうは言っても、あたしったら、映画で描かれる政治家や公務員とか自衛隊を「かっこいい~ありがたい〜」と思いながら観ちゃってたのよね。
こんな政府とか行政に有能な人がいたら、てか、本当にいるんだから、なんて素敵な国に暮らしてるんだろう、なんて思ってしまうとこがあってさ。
あと、映画を観てるあたしは「自分は死なない」って、完全に助けてもらえる側だと思ってたわけよ。
最後は「感動をありがとう」的な雰囲気もあったぐらい。
あたし、何様なのかしらねw。福祉のクソも整ってなかった江戸で暮らしてた頃には、感じもしなかったことよ。
現実に何かしらのテロとか事件が起きてもさ、そう思ってしまいそうなのよね。
その時のあたしって何もしないままで、運命の定め的なものを待つしかないのかしら、って思うのよ。
てか、主人公の矢口とか他の登場人物たちは、ただ自分の仕事をしていただけなのよね。ヒーローでもなんでもなく、自分のタスクをこなしていただけ。そういう立場だから。
あたしの方が勝手に彼らを有能な人たちと見て、立場の違いを都合よく利用したのかもね。
でもさ、いざとなった時、あたしはただの蕎麦屋の女将だし、国とか市民を救う立場ではないんだけど、でもやっぱり助けてもらう立場でしかいられないかしら。
無力な小市民でいることにありがたさを感じていることって、それって幸せなことなのかしら。
前にブログに書いた『ズートピア』には上手くいかないこともあるけど、日々の困難に抗うために、ひとりひとりが希望を持って過ごす様子が描かれていたわ。
一方で、今回の『シン・ゴジラ』には、将来の不透明さばかりが強調されていたように思う。ヒーローの出現を待ち望む世界の様子は、いまの現実でもそんな感じで同じよね。
退治されてしまうゴジラは、映画の中でも言われてたけど、「ただ陸を移動するだけ」の存在で描かれていてさ。
映画では、よくわからないモノに対してどう対処するか、早急な判断を求められる場面が繰り返されていたけど、悪い言い方をすれば、その場しのぎでやってる様子の繰り返しだった。
現実的に考えれば、そうせざるを得なかったことだろうし、正解かわからぬまま判断することって、難しいし苦しいことなのもわかる。
でも、あたしが何が嫌だったのかというと、そういうその場しのぎの様子で街を破壊されて、しかも自分ではない誰かがゴジラをやっつけてくれたことに、感動しちゃったことなのよ。
だから、不甲斐ない感情が昂ぶって仕方なかったのよね。
あ、映画の作りがその場しのぎだってことじゃないわよ。物語の中の話。
とにかく、自分の人生に影響のないところで、他の誰かが上手いことやってくれていることに感激した自分が不甲斐なく感じたの。破壊行為を伴っていたら、自分に影響しないわけないのにさ。
無力さってさ、守られてる感覚みたいな被支配的なことと相まったりして、心地よく感じちゃうもんなんだね。
いまはなんだか、ズートピアで見た希望を自分で失くしてしまったようで、ジュディとニックに申し訳ない気分よ。
黒船が来た時も、ゴジラが来たみたいな感じと似てたのかしら。
あたしはその前に現代に来てしまったから、よくわからないけれど。てか、あたしもゴジラみたいな存在だったわ。ウケるw。
あらあら、もうこんな時間!
今夜の営業に響くから、今日はこの辺で鑑賞日記を締めさせていただきます。
なんかルサンチマンに毒されたような感想になってしまったけど、見ていて飽きることはないから、是非、みなさまにも映画館に足を運んでほしいです。
物語上、現実ではみんな知ってるゴジラを誰も知らなかったことだけがリアリティに欠けてたけど、他は文句なしです!
観終わったら、ギリギリでゴジラに壊されなかったうちのお店に、蕎麦を食べにおいでくださいませ!
ではまたね。