ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

おしのの映画鑑賞日記-『沈黙』を観て

こんにちは。しのです。
またまたご無沙汰しちゃって、すみませんね。

 

結構、映画は観てたんだけど、春ってお店が忙しくなるからさ、感想とかは下書き程度にしか書く暇がなくってね。

ようやく、ゴールデンウィークも過ぎて、お店も通常営業の調子に戻ってきたので、ちょっとずつ下書きしてた映画の感想を上げていくわね。

 

今回は『沈黙』って映画を観たときの感想よ。

 

観た後とかしばらくは、仕事以外のときは、その映画で描かれていたことばかり考えちゃってたの。

江戸時代の切支丹迫害を題材にした小説を原作にしてるんだけど、切支丹の迫害ってさ、江戸時代からタイムスリップしてくる前も、あー、誰かが話していたかしらん、ってぐらいの感じで、詳しくは知らなかったのよ。

なんせただの丁稚の娘だからさ。読み書き演算は教えてもらえたけど、世間の話は大人たちの噂話でしか聞いたことがなかったのよ。

映画を観て、こんなことがあったの!?って驚いたけど、あの時のあたしが見てきた世界って、見えてないことの方が多かったんだなぁ、とかとか、いろいろ考えてしまってね。

 

てか、その点については、いまも昔も変わらないのよね。
自分の意識していることがね、すべてではないのだけれど、意識できていないことを、どう自分の人生に組み込んでいくかが鍵でさ。
誰かに教わったり、学んだ通りに生きようとしても、自分の解釈って必ず入るわけだし。どう生きて行こうかって、あたしってこれよね!って、決めてきたわけじゃないのよね。

なんだか大きな力に流されているんだなぁ、とは思ったりするの。その大きな力が「神」だったり「運命」だったりするのかもしれないのかしらん。

 

劇中でも、日本人の信者がね、死ねば天国に行けるんでしょ?、って神父に聞くわけよ。

神父はさ、そんな考え方に違和感を感じながらも、言葉が不自由なために正しいことを説くことができずに困惑する場面があってね。

神の教えは神様自身の声では伝わらないって、少し滑稽な話よね。なーんて書いてて、神様が読んだら怒るかしら。

 

「神」や「運命」の下に生きるとは、どういうことなのか、他者に世間の道理を説くとはいかなることなのかー、とかさ。

地勢的な状況やキーマンとなる人物の考えひとつで、人の道理とか人生の指針の核になることが、左右される様子がこの映画ではとっても残酷に見えちゃってね。

でも、人間の命は尊いものだけど、犠牲にするものでは無いということだけは、強く確信させられた気がするわ。

 

尊いものを犠牲にして得られるものって何かしら。あたしにはパッと思いつくものがなくってね。自己犠牲への美徳って、功利的な考えが透けて見えて、似非臭いのよね。大して犠牲になってないわよ、って思うの。
他人のことだから、口に出しては言いませんけどねw。

 

気になったのは、拷問の場面の映し方が、当事者とは異なる第三者的な視点で描かれていて、拷問される側の苦痛から距離が置かれていたように感じられたことね。
あたしの気のせいかもだけど、大昔に読んだ本では、苦しい様子がまざまざと描き出されていたもんだから、読むのさえつらかったんだけど、今回の映画はそうでも無かったのよ。

語弊があるかもしれないけど、残忍さに物足りなさを感じちゃってね。

 

おそらくは主人公の神父の目線を意識してのことなのかもしれない。

拷問されて死んでいく信者の存在がね、とても遠くに感じられた。信者から信望の寄せられる神父が向ける信者への目線は、親密とは言い難く、とても希薄に感じられて困惑してしまったのよ。

決して、観て楽しい映画ではないから、また観て確かめるのも気が引けるけど、あの感覚って、普段の生活でもたまに感じたりするのよね。
その正体は、いまだつかめてはいないけど、なんか疎かにしてはいけないもののような気がするわ。

 

こうやってまたわかんないまま生きていっちゃうのよね。

とりあえず、目の前にあることを片付けていかないと。明日の営業も頑張らないとね。

 

またね!