#きょうの赤飯 #また食べたい
蒸かしたての赤飯はうまい。
餅つき機を購入してから餅ばかり作ってきたが、蒸し機能で赤飯もできると知って、いざ自分で作ってみたらば、さぁ大変。
かなり美味い。
小豆かササゲを茹で、灰汁抜きを繰り返しながら煮汁をつくって冷まし、それに餅米を一晩浸して水を切ってから蒸す、という手間さえ無ければ、毎日でも食べたい美味しさである。
面倒さ故に何かしらの動機がないと作れない代物であるため、その貴重さがまた美味しさのイメージを底上げしている。
今回は花見にお誘いいただいたので、これを口実に赤飯を蒸した。
実のところ、お誘いいただけるのを期待して、ふるさと納税で餅米を調達もしていた。
小豆は隣町の秋の収穫祭にて買っておいたもの。
生憎、きょうは週末に参加しているボランティア関連で、顔合わせの約束が夕方にあったので、差し入れだけして一杯だけいただいて、早々に花見からは離脱させてもらった。
けれど、美味しいという感想を、少しでもいただけたのは幸いなことであった。
自分も美味しいと思ってたので、感動もごま塩である。
(ごま塩とはひとしおの混じりであるが、わかる人だけわかればいい)
ちなみにバター餅も作ったのだが、はたしてどんな具合だったろうか。
気になる。来年も作らせてもらえるだろうか。
ま、こんなことを書いて読んでもらったところで、実際に家で赤飯を蒸す人はいないだろうとは思う。
逆に、赤飯を作ってよ、だとか自分に声をかけて来られる方も、特にいないのがまた不思議だ。
こちらとしては面倒でも作る動機付けがほしいというのに。
材料もまだあるというのに。
何かしらの誘いにくさが、自分のパーソナリティの問題としてあるのだろうか。
蒸したての赤飯の美味しさは、そんなものを凌駕するほどの美味しさだというのに、誠に残念な話である。
しかしながら、なんて不毛な記録を、インターネットの世界に、アーカイブしようとしているのだろうか。
けれども、この先、何年後になるかはわからないが、一人ぐらいは出てくるかもしれない。
アーカイブして公開することの意義とは、こういうことなのではないか。
自分が死んだ後でもいいから、赤飯を蒸して食べてみようかな、なんて思ってくれる人が現れてくれたら、と本気で思う。
蒸す前の餅米と小豆の様子。7合分。
蒸かしたての赤飯の様子。これが美味い。
盛り付けた赤飯の様子。ちょっと色が濃すぎたかもしれない。
こらはバター餅。昨日つくって、冷蔵庫で一晩冷やしたものを、包丁で切りました。
#きょうの赤飯
#また食べたい