ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

お母さんについて

今朝は5時ごろに目が覚めた。姉からの電話の着信音が、枕元で鳴り響いたからだ。

 

目が覚めたときには、10回ほどの着信履歴がロック画面に並んでいた。とてつもなく嫌な予感がして、鳴っている電話に出ることができなかった。

こんな時間に姉が鬼のように電話してくるなんて、身内の誰かに何かがあったのだろうと想像するには容易い。もしくは何かの行楽のついでに、家の近くに来たので電話してくることも想像できたが、着信回数がちょっと多すぎた。

 

10回も電話をして俺が出ないので諦めたのか、LINEでメッセージを送ってくれた。

それを読むのにも躊躇したが、ロック画面に表示される文字は、嫌が応にも目に入ってくる。

そもそも嫌な予感というのは、無視してはならないこと、正面から受け止めなければならないこと、というか、少しも茶化すことができる余地のない予感で、まったく逃げ場もない状況が迫っていることを言うのかもしれない。

そういう状況を、俺はとても苦手としている。

 

姉からのLINEを読むと、

今朝、母が心不全で倒れたとのこと。隣町の病院に搬送されて、いまERから出てHCSに移ったとのこと。命に別状もないし、手術もしないが、咳き込んで苦しそうだとのこと。もう一人の姉へ、入院に必要なものを買ってきてほしいと伝えつつ、救急車に同乗した父に飯は買ってあるからいらないとのこと。

と書いてあった。

 

倒れたのは、お母さんだった。

常々、不摂生を繰り返す父の方だと思ったら、お母さんの方だった。

 

命に別状は無いといえども、原因はよくわかってないし、普段は負けん気の強い母のことだ、倒れたことにショックを受けているに違いない、と思いつつ、俺も結構なショックを受けていることに動揺した。

 

今日は何も予定がなかったので、早々に病院に向かうと、電話に出れなかったことをLINEで詫びながら、すぐに出かける準備をして家を出た。

電車で移動する途中、家族のLINEグループでは、ソーシャルワーカーをしている姪が、いろいろと姉たちをフォローしてくれていた。

家族のLINEグループは、俺が両親にスマホを買ってあげたのをきっかけに、今年の夏につくったのだが、こういう役立ち方をするとは思わなかった。

 

先ほど、うちのお母さんは負けん気が強いと書いたが、実のところ、身体の方はあまり強くない。

祖母は、曽祖父の弟、つまり祖母にとっては叔父と、結婚して生まれたのが母で、つまりは「血が濃い」のだ。母には兄姉もいたが、近縁から生まれたせいか、みな身体が弱く若くして亡くなった。

母は末っ子なので、時代的に栄養状態も良くなったころに育ったのが幸いしたのか、大病をすることなく生きてきたが、高血圧や皮膚の疾患には長年悩まされており、気管支も弱く身体は弱い方だとも思う。

昔からよく「自分は血が濃いから」と、少し具合が悪くなる度に、愚痴を言って弱気になっていたことを思い出す。

それで兄姉も両親も亡くしたのだから、弱気になって当然のことだったのかもしれない。

 

今年の盆に岩手に帰った際には、親戚の大叔母が、母のことを身寄りもなくて可哀想だ、と言っているのを聞いた。

そういう風に見られてたのか、と俺はとにかく驚いた。

負けん気が強くて、子どもの頃からの苦労話を嬉々として話す母は、俺にとってヒーローに近い存在だったからだ。

家は貧乏で中卒だし、キャリアもないし、資産もないけど、田舎からひとりで関東に出てきて「それなりの」生活を手に入れた。昔の父と若くして結婚するものの、当時は職が安定しない人だったらしく、母は父をコントロールしながら、実家の祖母に仕送りをしつつも、コツコツと資金を貯めて、一戸建てを買った。

子どもの十分な教育まで、手は回らなかったようだし、放任的ではあったけど、自分の子どもを誇りに思ってくれている様子は、普段の言動の隅々に感じた。

その過程で、母は創価学会にも入ったし、アムウェイにも少し熱心になったけど、寄る辺もない母にとっては必要だったことだと思うし、何も恥じることではないと俺は思っている。

 

そういう母は、俺にとって真似のできない強い人だったのだが、違う視点から見ると、可哀想な人だったことに愕然としたのだった。

俺は、苦労してきた母のことを労っていただろうか。母の負けん気に頼って、大して労わることをしてこなかったように思う。

 

病室に着くと、点滴に酸素マスク、尿カテーテル、心電図につながる母がベットで横たわっていた。

だいぶ容態は回復してきたと姉から聞いたが、それでも苦しそうに咳き込んでいた。

俺に気づくと、遠いのにわざわざ来たんか、とイケズなことを言うのだが、その声はしゃがれて弱々しかった。

俺が手を差し出しと、ギュッと握って離そうとせず、ありがとうね、という母はとても小さく見えた。

それは自分にとって、あまり見たくない母の姿だった。でも受け止めないといけない姿でもあって、嫌な予感が現実になった瞬間だった。

 

気管支を拡張する薬を吸入したら、数時間してもうだいぶ落ち着いてきて、不平不満を漏らしつつ、早く退院しようとする気の強い母が戻ってきた。

とにかく入院費がもったいないと思っているのか、しきりに帰ろうとする。

検査も終わってないし、第一にまだ苦しそうにしてて帰れるわけなかろう、と姉たちと諭す。俺が、入院する日ごとに寿命が延びるとおもえばよかろう?、と言ったら、母が、それ良いな!採用!、と笑って言って、少し安心した。

 

そろそろ帰ろうかと席を立とうとすると、せっかくの休みなのにゴメンな、と母が言ってきた。それに俺は、こんな時ぐらい良いんじゃないすか〜?と軽く返答したけど、俺の時間は誰のものなのだろう、とふと疑問に思った。

 

自分の人生の時間は自分のものようで少し違う。自分が大切に思う人のための時間なのかもしれない。

 

帰りの電車で、姪からのLINEが届いた。

糖尿病による心不全と風邪による気管支炎が重なったらしい、糖尿病の治療に時間がかかる、短くて2週間ぐらいの入院になる、それに母はかなり嫌そうにしている、などなど。

インシュリン注射が必要になるそうで、食事制限も必須になるだろうし、あの母のことだから、きっと煩わしく思うに違いない。

しかし、体調不良の原因がわかれば、対処すればいいだけのことなので、だいぶ自分の気持ちも落ち着いたらホッとした。

 

それと同時に、これからの自分の人生の時間、どうやって使って行こうか、と具体的に考えて決めなければと思った。

なんとなく、斜に構えたりや冗談で決められないもののようにも思う。

 

今日は、TwitterとかSNSの類など、見る気さえも起きなかった。しばらく距離を置くべきものなのかもしれない。お母さんについて呟いて、笑ってもらう気になるまでは。

 

いずれまたそのうち。