#クレームでもなく提言でもなく #ひと月も過ぎて誕生日
誕生日を迎えてから、ひと月あまりが過ぎた。
とうとう38歳になったのかぁ、歳をとったもんだなぁと感慨深くなっていたら、実は37歳の勘違いだった。
いつの間に、自分は37歳になったつもりでいたのだろうか。
はっきりとは思い出せない。
36歳だったのにも関わらず、37歳のつもりで半年以上は過ごしていたように思う。
若さを取り逃がしたようで、少しもったいないことをしたような感じもあるが、38歳になるまで猶予ができたのはラッキーなことなのかもしれない。
来年の誕生日では39歳になったと勘違いするような気がしないでもないが、いずれにしろ、年齢に価値を置く趣味が無いのは良いことのように思う。
ラッキーだった。
30歳を過ぎてから、自分の性的志向に任せて生きることにして7年目を迎えた。
7年間というのは、子どもが生まれたら小学校1年生までの時間だし、小学校1年生の子が中学校1年生になる時間で、中学校1年生だった子が大学生か会社員になる時間でもある。
比べると結構な年数が経ったことになるのだが、自分の中でどれだけ変化があったのだろうか。
自分に正直になったところでクヨクヨすることばかりだし、特段の進展は無いのだが、日々の暮らしには悩むことが無いのは此れ幸いと感じる。
おそらくは世の中的に「社会人◯年生」という指標があれば、次のステージに向かってもっと頑張らなきゃ!とか、世間に置いてかれている!と焦ったりするのだろうが。
そこらへんは各個人に委ねられているので、今後も、端から無視させていただこうと思う。
そんな感じで間抜けな誕生日を過ぎてから、これは良い区切りだと思って、意識的にSNSと距離を置くようにした。
そうは言っても、自分の趣味やハロプロの情報を追うことはやめられなかったのだが、おかげで「SNS疲れ」と言うところの、疲れる原因がなんとなくわかったような気がする。
それが目的であったわけではないのだが、自分の関心がある情報だけ目にして、かつ自分から発信することをしなければ、あまり疲れないことを知った。
自分の存在感を消す、というか、発揮させようとしなければ、まったく疲れないのだ。
存在感を出そうとすると、どうしても「在りたい自分」を意識するし、現実の「等身大の自分」とのギャップで神経が擦り切れるのかもしれない。
ましてやインターネット上では、高度なリテラシーも必要だが、なによりシビアな社会性が要求されるから丸腰では臨めない。
現実の村社会並みか、それ以上にムラ的で特殊な場所になってしまっている。
この話はまた別の機会にまとめてみたいところだが、とにかくSNSと距離を置くことで「等身大の自分」を受け入れられたら、と思ったのだ。
とりあえず、ひと月は何も発信しないと決めた。
けれど、エルトンジョンの映画を観たら、同じようなテーマだったので、興奮して時期を待たずに再開してしまった。
発信したいと思う時は、自分とは違うものに突き動かされているものなのかもしれない。
そんな自分は何者なのか。もしくは何者になりたいのか。
思ってた以上に空っぽな自分に改めて驚かされたし、アラフォーにもなって未熟さを曝け出すのはなかなかに愚かなことだとは思う。
しかし、胸の底には沸々とした熱があることにはあるのだ。
その熱がいつ放出されるのか。
もしかしたら放出されることなく死ぬのかもしれないけれど、いまはその準備期間だと思って、粛々と技術を磨くことができたらと思う。
誕生日だったからというわけではないけれど、職場のPCモニターを34インチウルトラワイドモニターに新調した。
横幅は89センチもある。
ネットゲーマー用に売られている代物なのだが、横に長いエクセルをやり繰りする業務には打ってつけでは!?と思い、課長にお願いして経費で買ってもらった。
ネット広告のサムネに現れた瞬間、鳥肌が立つくらいに感動したのを覚えている。
いままで3つのモニターを無理に使っていたのだけれど、おかげでモニターのベゼルの境を気にせず仕事ができるようになった。
横に長いエクセルもなんのそのである。超快適。
世のネットゲーマーたちに感謝である。
誕生日には、かの人からLINEでお祝いのメッセージをもらった。
来ないと思っていたから少しホッとした。
他は家族からと、数人の友人からメッセージをいただいた。
少々寂しさが漂う現状ではあるが、自分はこの程度の人間なのだ。
もう少し欲張って生きても良いのかなぁ、とか思ってみたりもするけれど、それが等身大の自分かというとやはり違うようにも思う。
等身大の自分とは何者なのか。
まだまだわからないことばかりだ。
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