#清々しいまでの性生活 #クレームでもなく提言でもなく
きょうはずっと観てみたかったゲイポルノ映画、「伯林漂流」を観てきた。
TwitterのTLに流れてきた一枚のポスター画像があまりに魅惑的で引き込まれて以来、この予告編の映像を何度繰り返し見てきたことか。
↓は予告編映像。
何のために観たのかは、大方の成人男性ならば察していただけるかと思う。
白状すると、主演の子(左)がめちゃんこタイプの容姿なんです。
なので、できることならば全編を観てみたいと密かに願いつつ、この映画の製作陣のツイートもつぶさに追ってみたりもしていた。
しかしながら、この映画が上映されるのは、海外のLGBT映画祭などばかりで、国内で観る機会に巡り合うことなく1年ちょっと(?)が過ぎてしまった。
その間、予告編の動画で何度も抜いてるので、ある意味、全編を見ずとも満足はしていたのは否めないのだが、映画の物語自体はどんなものなのかは、やはりずっと気になっていた。
でも正直なことを言うと、作品の出来自体には、そこまで期待してはいなかった。
予告編で見る限り、登場人物たちの台詞の言い回しはほぼ棒読みでたどたどしいし、セックスシーンも予告編で見たものが全てであれば、物語の世界観に入り込めるような気がしなかったのだ。
今回、映画監督のこれまでの作品を全て上映する企画があって、ようやくこの映画を全編通して観るという希望が適った。
企画をしてくれた主催の方には、感謝の気持ちで頭が上がらない。
けれども、そこまで面白くは無いかもよ、と、あまり期待値は上げないように自制心を働かせるようにしていた。
観た後にガッカリすることはあまりしたくない。
しかし邪な理性というものは上手いこと働かないものだ。
この機会を逃しては一生観ることができないかもしれない、という危機感と、やっと観られるぞ!という嬉しさで、会場が近づくほどに期待は高まってしまった。
今回は、監督の生前追悼上映という主旨で、監督作品や出演作を上映される企画で、言うなれば名画座の"特集上映"みたいな感じ。
1回券の購入で見ることもできるし、1日通しで観られる券もあった。
会場に着くと、監督自らが受付の仕事をされていた。
周りのお客さんの様子を伺うに、お知り合いの方々も多く来られている様子だった。
お客さんは40代以上の男性が5割ほどいて、ほとんどが短髪あご髭短パンのイカニモな方々が大半であったが、中には女性のお客さんもいた。
前髪のある人がマジでいないな、、と思いながら、若干肩身の狭い思いをしつつ、会場に入って空いている席を探して座る。
じきに満席になったようで、パイプ椅子の座席も追加された。
開演時間になると、受付を済ませた監督が汗だくになりながら、マイクを持って挨拶をされる。
主に「生前追悼上映会」と題する企画をした理由について語られていた。
以下はその要旨。
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長らくピンク映画の製作に関わってくる中で、お世話になった人が亡くなるようになってきた。
年上の人もいれば、自分よりも若い子も亡くなる人が出てきた。
亡くなる度に、出演作や手がけた作品をの追悼上映が企画されて、いくつも観てきた。
追悼上映にはいつも人が大勢集まるのを見て、できれば亡くなった人が生きているうちに、この光景を目にしてもらいたいと思ってきた。
自分も歳をとって、事故をしてから障害者になってから体調も優れず、何度も死にかけることがあった。
だから最新作の「伯林漂流」は、自分の集大成として遺作をつくっておきたい、という思いから製作した。
まだ生きているから今後も映画づくりはすると思うが、先々に不安があるのことには変わりがない。
だから、生きているうちに自分の作品を観てもらいたいし、その様子を目にしたいと思い、このような企画を立ち上げた。
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という話を聞いて、「生前追悼上映会」と称していることに素直に合点がいった。
なんだかピンク映画のジャンルのイメージもあって、いかにもアングラな趣味にありがちな、自分に酔いしれた企画なのではないかと心配していたのだが、人として至極真っ当な動機で、そういうことができることに羨ましさも感じた。
監督はだいぶ緊張されていたのか、マイクを持つ手や話す声も震わせながら、話されているのが印象的だった。
この監督はピンク映画の製作や出演もされてきた経歴を持たれている。
そんな映画監督をイメージするならば、いかにも自信家で強気な性格のイメージをされていそうなのだが、随分とおっとりとされた方で意外だった。
それと注意事項として、かなり過激な性描写が含まれるため、もし苦手に思われる方がいたら、返金するので今のうちに退出されることを勧められていた。
ポルノ漫画家の田亀源五郎先生が脚本を書かれていることもあり、この間、NHKで放送された「弟の夫」のようなほんわかしたホームドラマを期待されて来られたお客さんに向けての配慮だったらしい。
たしかに「弟の夫」だけしか知らないまま、田亀先生の他作品を観ると衝撃が大きすぎて、行き過ぎた拒絶反応を示される方もいるような気がする。
そんな自虐的なネタで和やかな笑いを取りつつ監督の挨拶が終わる。
監督が後方の席にはけると、部屋の照明が落とされて、白いスクリーンが明るく浮かび上がった。
配給会社のロゴが映し出された後、会場内にはスピーカーから男性の喘ぎ声が響き渡り、スクリーンには白人男性に正常位で挿入される例の若い男性が映された。
自分は予期せぬ展開に呆気にとられて、思わずたじろいでしまった。
唐突にピンク映画の洗礼に遭ったような、そんな気分だ。
白人男性は腰をランダムなリズムで動かし、緩く勃起したチンコで例の男性のアナルを突きまくる。
その様子を数分間、ただ見せつけられた。
普段から似たような動画を目にしてはいるのに、なんだかいつもと違う感覚というか、非日常さゆえの不思議な気持ちになった。
性描写が露骨すぎるのに驚いたのか、それとも単にホントに挿入してることに驚いたからなのか。
そんなことは前もってわかってはいたことなのに、何故、ここまで冒頭から圧倒されたのかというと、主演の男の子が本当に気持ち良さそうな表情をしていたからだと思った。
セックスシーンと言えども映画のワンシーンであるから、本当のところはフィクションなのだが、俳優が浮かべる恍惚の表情は、羨ましくなってしまうほど、快感に喜んでいるように見えた。
その後もセックスシーンは次々と続いた。
スマホのアプリでやり取りし、毎日のように別の男とセックスする日本人の若者と、その若者に寄り集まってくる男たちとのやり取り。
それぞれのセックスでは、反り上がる陰部のドアップと汗まみれで快感に溺れる表情とが、喘ぎ声とほとばしる体液の音と共に、スクリーンいっぱいに展開された。
その光景は、Twitterのエロ垢のつぶやきから見聞きすることばかりで、舞台は異国であれど、現実離れしたことのようには思えなかった。
いつもは誰かも知らない人のモザイクに霞んでいるような描写が、演技でもないしフィクションでもない、"とある人物"のセックスとして見せつけられて、映画の上映が終わるまで、ただ圧倒されっ放しだった。
もし乱交パーティなどの現場に行くことができたら、他人のセックスなど見放題なのかもしれない。
けれども、映像として切り取られたその光景はとても美しかったし、自分がセックスしている時より性的に卑猥なものに感じられて特に感動してしまったのだと思う。
お恥ずかしい話なのだが、ひとつここで断っておくと、自分はそこまで多くは性交渉の経験をしてきていない。
なので、これを読む人で自分の経験値が低いことを知る人は、衝撃がデカイのは性経験が少ないからだと思われるのかもしれない。
それと、自分はもっと過激な性体験をしているので、映画を観ても何も感化されない人もいると思う。
しかし、自分が言いたいのは、過激な性描写がどうのこうのではなく、"他人のセックスの観ること"で感化される己の感情についてなのだ。
ここから先はネタバレを含むことになるので、上映会が終わってから書きたいと思う。
この前の杉田議員の発言を機に、同性愛者同士が揶揄し合う様子を目にする機会が段々と増えてきた。
この映画で登場する人物たちの生活も、ほとんどが非倫理的なもので、公の場で胸を張って言える行為はほぼ描かれていない。
なので、"ホモウヨ"と呼ばれるようになった人にとっては、この映画は格好の攻撃対象になるのかもしれない。
だけど、とてつもなくリアルな映画に仕上げられていたし、その分、自分は観る価値のある映画だと思う。
ただ、この映画では「君の名前で僕を呼んで」のような美男同士の耽美的なセックスは観られないし、夢や理想に酔いしれることもできないので好みでなければ見ない方がよいのかもしれない。
けれども、この映画のように手入れもしていない体毛でいっぱいの、かつ、肉の緩んだ身体を重ね合っては、体液でグチョグチョになりながらセックスをしているのが現実なのだ。
自分に引き寄せてみて、人生の糧になり得る映画はどちらのフィクションの世界か。
少し考えてみたらわかることだとは思う。
はー、また長々と書いてしまった。
この作品は、まだまだ映像ソフト化の予定もなさそうなので、是非とも観られるときに観てほしいな、と思います。
観た人の反響が大きくなって行って、いつかはDVDの発売が叶うといいなぁ、と切に願います。
#清々しいまでの性生活
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