ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

#ボタニカルホモ日誌 20181124

およそ三週間前の朝の通勤時、最寄駅から会社まで歩いていると、姪から姉が倒れて病院に搬送されたという知らせを受けた。

重症かどうかもわからないというので、病状がわかったらまた連絡してほしいと伝えて通常通りに出勤した。

だいたい一時間ほど経った頃ぐらいだろうか、姪と病院に向かった母から電話があり、姉はクモ膜下出血で倒れたようだと聞いた。

しかも昏睡状態だという。

それを聞いて、一気に血の気が引く。

うちの家系は血管の何かで亡くなる家系。

クモ膜下出血や脳溢血、脳梗塞で亡くなるか、介護を要する親戚が多くいた。

クモ膜下出血というのは、簡単に言うと脳みそと頭蓋骨の間に出血した血液が溜まって、脳内の血管を圧迫し血液が送られなくなる症状を言う。

意識のある状態であれば投薬で、脳内にできた出血を処置することができるようだが、意識が無い状態であればすぐに出血箇所を特定し、手術によって止血処置と脳を圧迫する血液を抜く処置がいる。

脳に損傷が出やすいため、処置が遅れれば死ぬ確率は高まるし、処置が上手くいっても後遺症が残りやすい。

これらのことが一気に頭に巡る。

課長に報告し、出勤した早々ながらも早退させてもらって、地元の隣町にある姉が搬送された病院に向かう。

東京から1時間半ほどだろうか、会社のメールをスマホで確認してると、家族からいまはどこなのか、まだ着かないのか、というLINEの通知がひっきりなしに届いた。

 

病院に着くと事務員の方に、救命処置室の隣にある家族待合室に通された。

扉を開けると、義兄と甥と姪、そして二番目の姉家族と両親が部屋のソファを占拠する形で座っていた。

自分が最後の登場だったので、何かしらの苦言を言われるかと思ったけれど、そんなことを考える余裕も無いのか、みんなうなだれていた。

ソファに座ると、姪が経過を教えてくれた。

いまは頭からと背中からカテーテルを入れて、出血部分の修復と溜まった血液を抜いて体液を調整する処置をしているのだという。

脳幹近くの血管が裂けるチーズのように切れて出血してしまったらしい。

姪はいま、ケースワーカーとして別の病院に勤めて4年になるので、詰まることなく専門用語をわかりやすく説明してくれる。

去年、母が倒れたときも頼りになった。

でも今回は彼女の母のこと。

気丈に振る舞っているが、内心はいろんな思いでグチャグチャなのではないかと察した。

姪が担当医師から説明を受けたところによると、処置が上手くいっても意識を取り戻すかどうかはわからないとのことだった。

意識を取り戻さなかったら脳死状態が続くし、意識を取り戻しても何かしらの障害を負う可能性もあり、それはまた意識を取り戻してみないとわからないらしい。

姉の場合、出血箇所が運動神経に触るところではなかったので、リハビリをすればまた歩けるようにはなるが、視覚系の部分に近い場所を処置したので、もしかしたらある程度の視覚障害を負う可能性が大きいのだという。

それと、2週間の間は血管が収縮しやすい期間のために、脳梗塞が起きると処置が難しくなるらしく、しばらくはICUにいる必要があるそうだった。

自分が思っていた以上に重症だったので、冷静さを装うのには無理があった。

手術が上手くいったとしても茨の道が続くかもしれないのかと思うと、元気を出してこう!などと軽々しいことは言えないし、身体から力が抜けていくようだった。

一方で、義兄や姪と甥の前で気落ちするわけにもいかない。

辛いのは彼らの方に決まっているのだ。

 

2時間ぐらい待っただろうか。

とりあえず必要な処置はすべて終わった段階で、ICUの中に面会できることになった。

といっても意識は戻ってないし、頭にカテーテルを差している状態だから、その姿に結構驚くかもしれないから無理はしないでね、と姪に言われる。

ICUに入ると、ベットの上で十数本もの管につながれた姉の姿があった。

顔や身体がパンパンに浮腫み、舌が少し口から出てしまっていて半目を開けていた。

ドキュメンタリーの放送でよく目にする、難病で全身麻痺になった患者さんとほぼ同じ姿だった。

変わり果てた姿とはまさにこの事か、と痛感すると共に、これは最悪な事態も覚悟しないといけないと思った。

刺激は与えられないので小声で声をかけるように促されるも、なかなか言葉が出てこなくて、姉の左腕に軽く触れて早く治るように念じることしかできなかった。

姪も甥も就職が決まったところで、孫ができたら自分が世話をするんだと話す姉の姿が目に浮かんでくる。

楽しみにしていたことがあるんだから死ぬなんて勿体ないでしょうよ、と何も力になれない自分の不甲斐なさが悔しくて仕方なくなった。

ICUから出ると待合室に戻り、改めて担当医師から説明を受ける義兄と姪が戻るのを待った。

みんなそれぞれ泣きそうになると部屋を出て行っては、病院な売店で飲み物やお菓子を買って戻ってくるので、待合室のテーブルは食べ物でいっぱいになった。

義兄と姪が戻って来る頃にはICUの面会時間も終わりだったので、一先ずは解散してまた明日様子を見ることになった。

今夜を乗り越えればカテーテルによる処置が上手く行ったことになるらしい。

自分は東京に戻ることも考えたけれど、両親も気落ちしているし、また呼び戻されることも考えて実家に泊まることにした。

会社の課長にも報告し、出勤は経過次第でまた相談させてもらうことになった。

病院から外に出ると18時少し前だというのに、すっかり暗くなっていた。

実家へ帰る車の中で、両親がこれからの心配をあれこれと話す。

姉は嫁に行った立場だからか、しきりに義兄の家の気づかいもしていた。

その様子を聴きながら、これから起こるかもしれないし起こらないかもしれない事を、自分なりに想像してはため息をついた。

家に着くと朝からの気疲れのせいか、両親も自分も早々に寝ることにした。

しかし、いつ病院から連絡が来るかもわからない。

その晩はずっとウトウトした状態で深い眠りにつけることは無かった。

窓の外が明るくなったのを見て、病院から特に連絡もなかったことを確認し、第1の山場を超えたことにホッと胸をなでおろした。

台所に行くと朝食を用意する母がいて、とりあえず良かったね、と挨拶の代わりに言葉を交わした。

あとは意識を取り戻すのを待つだけだったので、自分はひとまず東京に戻り、在宅で仕事をすることにした。

何かあれば病院に行けるようにと、課長が気を利かせてくれたのだ。

けれども、仕事をし始めたところで何だかんだうわの空な感じで、まったく仕事に集中することはできなかった。

こんなことなら病院で待っていた方が良かったかな、と実家を出る際に感じた親の残念そうな視線が思い出されてくる。

気を紛らわそうと、お見舞いに何を買って行こうかと仕事もせずにスマホで検索する。

うちの姉は何が好きだったっけと思い出すも、好物を聞いたことが無かったなと気づく。

姉は何でも美味い美味いと食べる人だったから、特に気にしたことが無かったのだった。

そんな記憶から誘発されたのか、お見舞いの品を選ぶ指を止めては、いろんな思い出にふけった。

 

姉と自分は10歳離れているので、自分が物心のついた頃には姉は高校生で、自分は世間のことを知る際には姉を経由してからのことが多かった。

漫画を読むようになったのも姉が買っていた本が最初だし、高校の文化祭や就職先にも遊びに呼ばれて行った。

いまで言う授かり婚で19歳で結婚して、諸々の挨拶や新居への引越しも手伝って、自分は小4でおじさんにもなった。

姪たちが産まれれば、育児や結婚生活での金銭面や親戚づきあいの難しさを目の当たりにしたりもした。

自分が高校や大学に入ると、姉を通じて学ぶことも減って行ったけれど、いまでも自分のパーソナリティの大元は姉の影響が大部分であることは間違いない。

そんな姉が倒れて死の淵に立たされているのかと思うと、なんだか遣る瀬無ない感情に駆られてくる。

そりゃあうちの姉は一介の市民で、マイルドヤンキーの中年女性でしかなく、盛んに与えるインパクトなんて、どこぞやの政治家や経営者に比べれば大したことでは無い。

けれど、人並みに楽しみなことがあって、死ぬことなんて望んでないのだから、なんとか生きさせてはもらえないものか、そう宙を眺めては得体の知れない何者かに訴えるように願った。

そんな感じでずっとそわそわしていたら、病院に行っていた母から姉が意識を取り戻したと電話がきた。

電話口から聞こえてくる母の声はかなり震えていて、嬉しいのとホッとしたのと昨日に我慢していた不安がドッと解放されたように聴こえて、自分の心にも伝染してくるようだった。

倒れた時の記憶もあるらしく、言葉も正確に発しているようで、記憶の障害は無さそうだとのことだった。

そして意識を戻した姉は、ゴメンねゴメンね、と繰り返し謝っていたらしい。

謝る必要は無いのに、と思うものの、声をかけられる場所に自分はいないのだと、改めて自分の薄情さを呪った。

 

その後、姪からも別に報告を受けて、意識を取り戻したけれども、血管が収縮しやすい期間はICUから出られないし、脳梗塞が起きれば危ないことには変わりがないという話を聞いた。

でも少しずつリハビリも始まるし、食欲もあるからゼリーやプリンなら食べられるかも、と言うので、お見舞いは新宿高野のゼリーにした。

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およそ一個800円もするゼリーなんて実物の果物より高い代物なのだが、かと言っていまは生の果実は食べられないだろうし、見た目の可愛さから気持ちも明るくできるかも、と思ったのだ。

それと後がないかもしれないのだから、このぐらいの値段でも贅沢には値しないだろうとも思ったりもした。

不謹慎ではあるのだけれど。

明日、会社の後に実家に帰る前にお店に寄って買って行こうと、いろいろと算段をつける。

その晩は少し気が楽になったのか、ちゃんと寝られたように思う。

 

翌日、実家に帰ると母が姉の様子を教えてくれた。

意識は取り戻していろいろと喋るものの、全身麻酔の気怠さと頭痛の痛みが酷く、あまり眠れていないとのことだった。

ICUも年中明るく電灯がついているし、他のベッドの処置の音も気になるらしい。

あと視力も元には戻ってないらしく、ものすごく眩しく見えて、ぼんやりとした視野しかないそうだった。

それが恒久的なものかどうかはわからないが、いまは血管の収縮期間を乗り越えるしかないのだろう。

姉には気の毒だが、耐えてもらうしかない。

 

その翌日の週末、面会時間前に病院に行くと、義兄と姪が先に来ていた。

義兄の方のご両親もお見舞いに来られていたようで、十数年ぶりに挨拶を交わした。

義父さんの方はだいぶ歳を取られていて、昔の面影をあまり感じなかったが、たぶん向こうも自分の姿に同じことを思ったのか、キョトンという顔をされた。

前に会った時は中学生か高校生ぐらいだったのだから無理もない。

面会時間になると、母は義兄のご両親へ先に面会をどうぞと譲っていた。

自分たちの方が時間がかかるし待たせるわけにもいかないと気遣ったのかもしれないが、嫁に行った立場を考えるとそういうものなのかもしれない。

常識というか、世間のしきたりというか、家と家の付き合い方というものを、自分はまだまだ知らないというか、気配りのスキルが足りないなぁと思った次第だ。

考えてみれば、数十年前のこの国であれば嫁に行った娘の見舞いなど簡単ではなかったのだろうから、だいぶマシになって来たのだろう。

世の中は劇的に変わることはなく、常にグラデーションのように変化してきている。

良いか悪いかの話は別にして、その時の流れの末端に自分たちがいることをリアルに感じた瞬間だった。

先に面会してもらった義兄のご両親が帰られるのを見送り、うちの家族が総出でICUに入る。

姉は相変わらず浮腫がひどい様子だったが、意識を取り戻した分、顔の表情筋に神経が通っているおかげか、だいぶ元の姉の姿にもどってきているように見えた。

けれど照明が眩しいらしく、目にはタオルをかけていて周りの様子は見えないようにしていた。

家族が各々に手を握っては声をかける。

二番目の姉の中二の甥が声をかけると、姉は笑顔を見せて話をしていた。

姉は子どもが本当に好きなんだな、と改めて見て思った。

そういえば近所の子どもも、姪と甥の同級生も自分家の子のように接していたなぁ、と懐かしく思ったし、たぶんいまも同じ姉なのだろうと思うと少し安心した。

自分が声をかけると、東京から来てくれるとは思ってなかったのか、わざわざほんとにゴメンね、と謝られた。

別に謝る必要は無いでしょ、と声をかけるも、頼りにならない弟ですんません、という気持ちが喉元を圧迫してきて、早々に声が詰まってしまった。

そんな自分のことには気づかずに姉は、仕事も忙しいのにさぁ心配させてゴメンね、と続けた。

休んだ分だけ寿命が伸びると思ってのんびりしなよ、と昨年に母が倒れた時と同じことを言うと、姉はフフッと笑った。

手を離して父に代わろうとすると、姉が何か本を持ってきてくれと言うので、わかった、と言って手を離した。

点滴の管がつながった姉の浮腫んだ手は熱を持っていて、身体の炎症に耐えている様子が、文字通り手に取るようにわかった。

ICUを出ると、みんなホッとしたけれど、まだ油断してはならないような、なんとも中途半端な気持ちになっていた様子だった。

また明日の面会時間に来ようと話をして、その日は解散した。

毎日見舞いに来たところで、治療の役に立つのかどうかはわからないのだが、自分たちの気が済まなかったのだと思う。

 

翌日、面会時間に行くと先に来ていた姪から、昨晩からの姉の様子を聞いた。

だいぶ意識がはっきりしてきたのか、あれこれと要望を言うようになってきたらしい。

経過は見守るしかないが悪くはなっていないので、ちょっと安心してもいいよ、と言う。

姪が大きくなってからは、まったく互いの生活に感知することはなくなっていたが、仕事で得た経験値をフルに活かしている姪は頼もしく感じてならなかった。

普段、家にいるとダラけて寝てばかりだというのに、いつの間にこんだけ成長していたのか。

ICUの姉の様子を見に行くと、リハビリの時間だったらしく、理学療法士の先生が管だらけの姉をベッドに座らせて、いろんな動作をするように声をかけていた。

まだ麻酔も残ってるのか痛み止めのせいなのかはわからないが、まだ全身の感覚が戻ってないようで、その動きはひとつひとつ重そうにしていた。

リハビリが終わるとぐったりとしていたが、また手を握っては来てくれてありがとう、と姉が言う。

また来週来るから、と言うと、いいよー仕事が忙しいんだから、と気遣われる。

実際、そうでもないのだけれど、、と返答に困っていると、義兄が姉はたまに、東京の大学を出て東京の会社で働く弟がいることを、近所や職場の人に自慢していることを教えてくれた。

そんなに自慢することではないのだが、と思いつつも、かつて姉が自分に世間を見せてくれたように、いまは自分が姉に世間を見せられてもいるのかもしれない、と思うと、少しは役に立てていたのかもしれないと思い直した。

ICUから出て、両親と義兄にまた来週末に来るけど、あまり手伝えなくて申し訳ないと詫びて駅に向かう。

帰りの電車では、いろんなことを考えた。

自分の選択が果たして本当に正しいのだろうか。

仕事を理由に家族の世話を疎かにするのも、家族の世話を理由に仕事を疎かにするのも、どちらも違う気がするし、上手いこと両方のバランスを取ることなども違う気がした。

けれど、何かしらの状況には追い込まれるのには違いが無くて、自分は目の前の仕事をこなすことを選んだのだ。

自分には物理的にも時間に余裕もないし、助けられるとすれば資金的なことだけだ。

でもそれしか無いし、義兄の面子もあるだろうから、そういう役目だと思って耐えるしかない、そう自分に言い聞かせた。

その翌日からは普通に出勤したものの、やはり集中することはできず、その仕事が遅れた分だけ後々てんやわんやな事態になって毎日がヘトヘトだった。

毎週の水泳教室にも行ったものの、うわの空で練習プランをこなしていたのか、あまり身の入った練習をすることができなかった。

ちょうど会う予定を調整していたお誘いは、事情を伝えてすべて断ることにした。

また、以前から約束していた用事を済ませるにしても、いつ呼び出されるかもわからないので、どこか後ろめたさをずっと感じていたように思う。

姪からの経過報告も、着信通知があるたびに開くのに躊躇しては、悪くはない知らせにホッとするという落ち着かない日々が続いた。

 

次の週末に病院へ見舞いに行くと、頭と背中に差していたカテーテルが外されていた。

まだいろんな管が付けられてはいたし、依然として目が眩しいらしくタオルを目にかけたままだったが、少しずつ回復はしているようだった。

手を握り声をかけると、また来てくれたの?悪いねぇ、と姉が言う。

どんだけ忙しくしている弟だと思う思われているのだろうか。

リハビリの調子はどうかと聴くと、痛みのせいで逆に感覚が無いからよくわからないけれど、とにかく終わった後がぐったりしちゃってダメだ、と答える。

後から姪に聞いたのだが、昨日までカテーテルを抜いた腰の辺りが腫れて激痛をもたらしていたのだと言う。

髄液が漏れてしまって、腰の神経を圧迫してしまったらしい。

担当医師からはまた手術をするよりは、身体に自然と吸収するのを待つしかないと言われたそうで、二晩ほどよく眠れなかったんだそうな。

きょうはようやく落ち着いてきたところなのだと言う。

そんな時でもリハビリをしなくてはならないとは、なかなかリハビリも手厳しいもんだと知った。

たぶんやればやるほど回復も早まるのだろうが、ついつい安静にしていた方がよいのではと思ってしまう。

来週にまた来るからと伝えて、ICUの部屋を後にする。

また来週もただただ待つ日々が続くのかと思うと、ちょっと嫌気がさしたけれど、他にできることは無いのだから仕方がないと諦めた。

 

次の週末はあっという間に来た。

家族の心配と自分の近い将来と仕事のくだらなさで思考がぐっちゃぐちゃのまま毎日が過ぎて行った。

病院に姉の様子を見に行くと、腰の痛みもだいぶ良くなったようで、顔の浮腫みも引いて元の表情を戻してきているようだった。

目は相変わらずハッキリとは見えていないようだが、MRIの検査結果も良いようで、ICUから出られるかもという話を聞いた。

一般病棟に移れば安心材料は増えるし、面会時間の幅が増えるので、いろいろと良いニュースだった。

まぁ、姉よりも自分たちにとって良いニュースなのだが。

本人の手を取って、良かったね、と声をかけると、自分が見舞いに贈ったゼリーの話をしてきた。

あのゼリーさ、看護師さんに羨ましがられたよ、どこのゼリーですか?って聞かれたんだけど見てないからわからなくってさ、どこのなん?と聞いてくる。

新宿高野ってところので、こういう非常事態でないと買えない代物なんですよ、自分は冗談めかして答えた。

そうなんだ、こんな美味しそうなゼリーとか初めて見ましたよ!って言われたんだ、と姉は嬉しそうに話していた。

ゼリーの容器の可愛さから目の保養になるかと思って買ってはみたものの、視力が回復しない内に買って贈ったことを後悔していたのだが、どうやら姉の周りの人の気持ちは明るくできてはいたようだった。

 

だいぶ姉も気力が湧いてきたのか、自分の倒れた時の様子を話してくれた。

職場で倒れて救急車に乗ったことまでは覚えていて、まさに倒れる時には、これはクモ膜下か脳溢血かなにかで、自分は死ぬのだと覚悟したのだという。

でも家で倒れてたら誰もいなかったから、救急車で運ばれることなく、きっと死んだ自分を帰ってきた誰かが見つけてたんだと思う、そうはならなくて良かった、などと、想像するにも怖いことをケラケラと半分笑いながら話していた。

たぶん一回死んだつもりでいるのかもしれない。

まだまだ痛みが続いていることも、視力が戻ってないことも、あまり気には止めていない様子だった。

それと義兄からも、命の心配がなくなったら後は自分との闘いだぞ、と言われたそうだ。

義兄も仕事もあるし、家事炊事もしないといけないのに、姉の世話までこなしてくれて、今回の活躍ぶりには本当に頭が上がらない。

もしも今後、姉に介護の必要が出た場合でも、義兄は姉の世話をしてくれるように感じた。

もしかしたら、うちの母は最悪のケースになった場合、離婚の話を形式的に切り出すことも考えていただろうが、それでも義兄は別れることなく世話をしてくれるんじゃないかと思わせる献身ぶりだった。

義兄と結婚した姉は本当にラッキーだ、と心の底から思うし、義兄には感謝しかない。

ICUから出ると両親も嬉しそうにしているのが、話す声の大きさや歩くスピードで伝わってきた。

家に帰ると、もう悪い知らせにビクビクしなくても良いのかと思うと、一気に緊張がほどけたのか、十数日ぶりにぐっすりと眠ることができた。

まだ視力は戻ってはいないけれど、命の心配をするよりかは軽いことのように思えた。

 

姪から姉が一般病棟に移ったという知らせが届いたのは、その2日後で奇しくも姉の誕生日だった。

翌日は仕事で半休が取れたので、短時間でも見舞いの段取りをつけて向かうことにした。

一般病棟に着くと、カーテンを閉め切った部屋で姉が寝ていた。

点滴はブドウ糖液のみになっていて、ICUでたくさん繋がっていた管のほとんどは外されていた。

しばらく部屋に置かれたパイプ椅子に座って様子を見ていたら、何かの気配に気づいたのか姉は起きて義兄の名前を呼んだ。

義兄ではなく弟だと伝えると、あらー仕事は?、とまた仕事の心配をしてくる。

こんだけ薄暗い部屋でもまだ明るさが刺激に感じるのか、目にタオルを覆っている。

姉が手を差し出すので握ると、ギュッと握り返す力が前よりも強くなっていた。

病院の食事もとれるようになったし、トイレも歩いて行っているんだと自ら話してくる。

もう心配はいらないとでも言いたげな様子だった。

でもリハビリはそこまでちゃんとこなせてはいないと姪から聞いていたので、話半分にして話を聞いていた。

姉と二人で話をするなんて何十年ぶりだろうか。

いつもは必ず義兄や姪や甥がいるので、なんだか不思議な感じである。

視力の検査も済ませたらしく、眼科の手術をすればある程度回復すると言われたらしい。

どうやら眼球の血管に血の塊があって、それが視界を悪くしているとのことだった。

入院している病院の設備では対応できないため、別の病院に片目ずつ手術しに行かなきゃならないのよ、と愚痴を言っていた。

しかし視力の回復の余地があると知って、愚痴を言う裏に嬉しさを滲ませているようだった。

夕飯の時間になると仕事を終えて義兄がやって来たので、交代するように自分は東京に帰ることにした。

週末の見舞いも、いつしか姉の回復の様子を見に伺うことが動機になっていた。

 

昨日は自分の好きなアイドルグループのコンサートに行って、姉の見舞いはきょう行ってきた。

昨日のコンサートは、姉の見舞いよりも優先すべきかどうかは置いておいて、お礼の気持ちもあったし、今後の自分の励みにしたかったこともあり、どうしても外せないものだった。

見舞いに行く時や会社からの帰りに、このアイドルの歌をずっと聴いていて、なかば自分の気持ちが折れないで済んだのは、この歌のおかげだと思う。

聴いていたアイドルグループの新曲の歌詞には、「歴史に名を残す前に、熱い電話くれなきゃ無理無理」だとか「結局はラブでしょ」というフレーズがある。

この数週間は随所で本当にそうだな、と思いながら、それらの言葉には本当に背中を押してもらえていたような気がする。

当然家族には内緒なのだが、昨日のコンサートには本当に行ってよかった。

そのうち姉が本格的にリハビリができるようになったら、応援ソングになるぞと教えてあげようと思う。

 

なーんてことを考えながら、姉のいる病室に行くとまた真っ暗な部屋で姉が寝ていた。

義兄もいるがどこか神妙そうな顔をしている。

どうやら具合が悪いらしい。

リハビリの時間が来ても、気分が悪いからと理学療法士さんを帰してしまったと聞いた。

一定時間のリハビリをこなさないといけないのだが、なかなか難しいようだった。

復職するためにはリハビリ専門の病棟に移る必要もあるらしく、その条件をクリアするのもギリギリの見込みだという。

命の心配がなくなれば病院は退院しなくてはならないようで、復職のためのフォローを頼むには条件をクリアする必要があるとは、なかなか世知辛さを感じるが、命の優先度を考えると合理的な仕組みだとも思う。

身内のこととなると、世間を優先することは途端に難しくなる。

こんなこと、他の人はみんなバランスをよく保てているなと感心してならない。

姉も寝ているのにも関わらず、しんどそうにしているのを見て、一言だけ声をかけて帰ることにした。

姉は、せっかく来てくれたのにゴメンね、と言っていた。

逆に謝らせてしまっていることに、自分は申し訳なく思った。

自分は歴史に名前を残せてもいないし、熱い言葉もかけることができていないことに、不甲斐なさを感じてばかりだ。

 

東京の家に帰ると、久々にベランダの鉢植えに水やりをした。

すっかり朝晩の気温が低くなって、雨の日も何日かあったので、毎日頻繁に水やりをすることはなくなっていた。

水やりをするにしても、この三週間は出勤前の暗い時間帯にやるのがほとんどで、日が出ている明るい時間に世話らしい世話をするのは本当に久しぶりのことだった。

鉢植えに無尽蔵に生えていた雑草も寒さで枯れてしまっている。

植木の葉を紅葉させているものもあれば、早々に葉を落としてしまったものもいる。

寒さに弱いものは部屋の中に入れていたから、その様子を目に触れてはいたけれど、ベランダに出したままの鉢植えたちはほぼ放置状態だった。

葉を落としているものの中には、来年はもう芽を出してくれないものもあるかもしれない。

半ば犠牲にしてしまったようで、植物ひとつ世話をすることができない罪悪感に軽く襲われてしまった。

こういう時、どういうふうに気持ちに決着をつけるべきなのか。

さっぱり見当もつかないから、自分はまた同じ失敗を繰り返すのかもしれない。

かの歌の「夢に見ていた自分じゃなくとも、真っ当に生きてく、いまどき」というフレーズが頭に浮かんでは、自分で何かの免罪符にしているようだった。

真っ当に生きてくことは結構難しい。

右往左往しているのを強がって見せては、内実、忙しい振りをしてばかりだ。

ベランダの鉢植えの様子を見ながら、自分に世話をする資格があるのかどうかと自問自答してみたけれど、自分で答えを出すには酷な問題だった。

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葉を枯らしたレモングラス氏。

丈夫な方なので、こう見えて来年の春には芽を出してくれはしないかと期待(するしかない)。
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ハイビスカスローゼル

種とりように残していた実が割れていた。

中にはいくつか種が残っていたけれど、だいぶ地面にこぼれてしまっているようだった。
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ブルーベリーのチャンドラー氏と食香バラの紫枝さん。

すっかり紅葉して、とても綺麗な色をさせていた。

もっと早く見てあげれば良かった。
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食香バラの豊華さんとブルーベリーのレカちゃん。

豊華さんは緑の葉を残しているが、レカちゃんは紅葉させた葉ももつ残り少なくなっていた。
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柚子氏とコブミカンさん。

こちらは乾燥にも寒さにも耐えていて頼もしい限り。
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サフランは花を咲かせたのは目撃したものの、雄しべの収穫をする間もなく花を落としてしまっていた。

このまま葉を茂らせてもらって、球根を増やして来年に期待です。
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韓国唐辛子さんとイタリアン唐辛子さんは、ギリギリ実を赤くさせてくれていた。

気温が低すぎるのか成長も鈍化して、水をやっても葉をしおらせたままだ。

 

本格的に寒くなる前に、冬支度の準備をしなくては。

家族のこともあるが、自分の身の回りの世話ができてないと共倒れになりかねない。

 

 

#ボタニカルホモ日誌 20181124