ウォンバットの黄金バット

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#18年ぶりの宇多田ヒカル #クレームでもなく提言でもなく

きょうは会社をきっかり定時で上がった後、宇多田ヒカルのライブに行ってきた。

直近のアルバムに初回生産特典で、購入者への先行抽選予約のキャンペーン的なものがあったので、発売日にアルバムを買って応募してみたら、きょうのチケットの席が確保できたのだ。

厳密に言うと当たったと言うよりは、その特典を得るためにアルバムを購入した、という言い方の方が正しい。

実のところ、いまの自分は昔ほど宇多田ヒカルのつくる歌に注目をしていないし、熱中しているわけでもない。

しかし、アルバムを買ってまで是が非とも行きたいと思ったのは、いまの宇多田はどうしているのか、劣化のない録音作品ではなく、ライブという同じ空間の中で相対してみたい、と率直に興味が湧いたというのが概ねの理由だ。

そもそも、宇多田ヒカルと自分は同級生ということもあり、デビューした頃から一方的に意識してきた存在でもあった。

同級生というと誤解されかねないので、念のために補足しておくと 、学年が同じなだけでもちろん学校は別である。

彼女は都心のインターナショナルスクールに通い、自分は北関東の田んぼの真ん中にある市立中学に通う人間で、接点などなにもないのに、どのアーティストよりも親近感を感じる対象だった。

同学年といえば同じ時期に世間を騒がせた人がもう一人いて、自分は宇多田とセットで思い出してしまう人がいる。

酒鬼薔薇聖斗という人だ。もしくは少年A。

デビュー曲が爆発的なヒットをしたのは、同じく同学年の酒鬼薔薇聖斗が起こした事件の翌年。

彼が起こした事件の波紋は収束することはなく、模倣的な犯罪や若者の心の闇について、方々のメディアで採り上げられては、結論の出ない議論が繰り返されていた。

そんな中で酒鬼薔薇とは逆のベクトルで、大人たちを狼狽えさせる存在として、新たにメディアの話題を掻っ攫ったのが宇多田ヒカルのデビューだった。

ニューヨーク生まれの15歳で作詞作曲をし、本格的R&Bを歌いこなしつつ、メディアへの露出を制限することで高まる神秘性と、それに比例するかのように伸びるCDセールス。

心に闇を抱えた14歳の話題から一転、そんな話が日常生活の至るところで話題に上った。

一世を風靡、って言葉がドハマりする盛り上がりだったのだが、一方で世間体になびくことのない宇多田の発言や態度は、「いまどきの若者」としてひとくくりに揶揄するには格好のネタにもされていた。

ひとくくりにされる側の自分にとっては、その宇多田の態度は参考にさせてもらうのに都合が良くて、生意気な発言をすることに免罪符として利用していたりもした。

同世代として振る舞えることを、勝手ながら誇らしくも感じていたのかもしれない。

また、酒鬼薔薇においても同じように、思春期特有の危うさや二面性があることを匂わして醸すことで、必要以上に世間になびかずにいられたように思う。

いまでいうと、2人とも同世代のオピニオンリーダー的な存在という感じだったのである。少なくとも自分にとっては。

といっても、二人とも明確な意見というものは無くて、ほとんど中二病的な「迷い」の塊みたいな人たちだったと、いまとなっては思う。

しかし、市井の人たちと別格だったのは、それぞれが創造した物事そのもので、いずれにしても自分には成し得ない事として目を離すことができないでいたのだ。

当時は、他の大人たちが狼狽える様子を、メディアを通じて面白半分に眺めていたつもりだったのだけれど、我ながら浅はかな見方をしていたと恥ずかしい感じだ。

自分も歳をとって、世の中のからくりを把握しつつある中で当時を振り返ってみれば、ネタにされて消費されていたのは自分たちの好奇心方だったわけだ。

行動に移すことができる才能と知恵が、自分には無いという現実を突きつけられたことに、メディアに踊らされている間、無意識に見て見ぬ振りをしていたのかもしれない。

潜在的に自分の内に創造力があったところで、それを形にするには素材が必要なのだが、知識や教養、それを養う資金に人脈、そして何よりも巡り合わせの運、すべてにおいて自分に足り得ているものは無かった。

そう知らしめられたとしても、どうすりゃ良いのかわからなくて、教養も資金も社会性もないのに、いまだ発揮することのない自分の素養だけは信じていたわけだが、単に世間知らずの未熟者でしかなかった。

あの頃は「心の闇」とか頻繁に耳にしたけれど、実のところ闇などではなくて、暗闇さえもない、本当に空っぽな状態であったんだと思う。

だから世間を騒がせる2人に自分を投影しては、非日常を夢見ることにのめり込むことができたのかもしれない。

宇多田ヒカルの書く歌詞やメディアを賑わす発言や振る舞いのひとつひとつに、知らない世界を見て学んでいたし、酒鬼薔薇聖斗がしでかした事件を契機に、世間で脚光浴びるためのチキンレースがスタートしたと感じ、ずっとソワソワした気持ちでいた昔の感覚はいまでも思い出すことができる。

それが思春期特有の何かなのかどうかはわからない。

しかし大人になったいま、当時のことを振り返ると、宇多田も酒鬼薔薇も自分も相当生意気な子供である点で同じだったのではとも思う。

 

そんなことを考えつつ、きょうのライブ会場であるさいたまスーパーアリーナまでやって来た。

宇多田ヒカルのライブを観るのは18年ぶり。

千葉マリンスタジアムで1stライブを観て以来のことで、あまりにも久しぶりだったので、この18年もの間、何をしてきただろうかと思い返してしまった。

自分の経験値なんて宇多田ヒカルには及ぶことはないのだけれど、自分は宇多田ヒカルが経験してないこともやって来たぞ、という自負もあって、昔のように、そんなに引き目などは感じなくなっていた。

ライブのために改めて宇多田の最新アルバムを聴き直してみたが、以前ほどハマらなくなっていたのは、アルバムの出来不出来の話ではなく、歳をとって価値観が変わったせいなのだと実感した。

歌詞にもアレンジにも、曲の世界観に以前のような生意気さが感じられなくなったのも無理もない。

少し期待をスカされた感じはあるけれど、逆に、そういうものなのだから、という納得感もある。

ただ、虚勢を張ることは無くなったけれど、いまだ自分が何者なのか掴めていない感じは、宇多田の方も相変わらずな様子に見えた。

世間に揉まれて牙をもがれたのか、それとも経験値を蓄えて人間力が向上したのか。

物怖じすることに物怖じしなくなったのかもしれない。

背伸びすることは無しに、等身大であることを意識して創作されたのかもしれない。

そんな感じで、新しいアルバムの曲は、自分を防御するための攻撃力が随分と削がれたように聴こえた。

けれど逆に、そのせいで最初に聴いたときには物足りなさを感じたのだが、きょうのライブで宇多田の歌を生で聴くことで、解釈を深めることができたように思う。

宇多田に惹きつけられる力は弱まっているけれど、別の側面で人間的な魅力が上がっているように感じた。

きょうのライブでは、自分はちょうど舞台の中央に並ぶ列の後方の席にいた。

距離はあれども、真正面の舞台上に立つ宇多田と対峙したとき、これまで彼女の言葉を通して見てきた世界を、時を経て2人で見直しているようだった。

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(真正面で宇多田と対峙するように歌を聴くことができた様子)

宇多田は演じるわけでもないし、魅せるわけでもなく、曲の世界観の一部になるように歌う人だ。

それは昔と変わっていないように感じた。

彼女の声は映写機がフィルムを回す音のようで、歌詞は脚本、メロディは絵コンテ、たくさんの音が輻輳しながら、たくさんの場面が同時に展開していくように聴こえる。

音楽理論に明るくない自分が、彼女の曲を魅力的に思うところは、そういう映画でも小説でもない歌にしかできない物語の表現を見て聴くことができるところだ。

映画にしたら2時間もかかるような物語を、たった数分の曲の間で描き切る再現性に魅了されているのだと思う。

退屈に感じた新しいアルバムにも、その力は遺憾無く発揮させられているのだが、これまでと異なるのは、とても自然な形で押しつけがましさなどが皆無だった点だ。

それを今日まで気づけなかったのは、彼女には自分の力がまだまだ及ばないことの現れでしかない。

どうして録音音源では気づくことができなかったのかはわからないけれど、おそらくはそれぞれの曲への向き合い方がライブのそれとは違うからなのかもしれない。

どっちがリアルで正しいかということではなく、そう気づけたことが素直に良かったと思う。

烏滸がましいことを言うようだけれど、宇多田も自分もすべてを把握したわけでもないし、手に入れられたわけでもない。

おそらく今後もしばらくの間は、ずっと戸惑い続けながら生きてくのだと思う。

その戸惑いは何なのか、創作活動で表現しては把握しようとしているのかもしれない。

そういう意味で、20年前に自分が作った曲を、20年後のいまの彼女のフィルターを通して歌い上げる姿には、いろんな迷いを乗り越えてきた者の力強さを感じられたし、圧倒的な美しさをオーラとしてまとっているように見えた。

ステージに立つ宇多田が客席に背中を向けた時には、彼女の後ろについて行こうと、ふと自然と足を踏み出してしまいそうになった。

子どもの頃のように宇多田に依存するためではなく、追いつきたいという気持ちからのことで、自分が宇多田より歳上だったり歳下であれば思わなかった話じゃないかと思う。

世間的な地位など、宇多田と自分との間には天と地よりも差があるけれど、同じ時代に生まれ、同じ時代を生きているのだと実感した瞬間だった。

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(途中、会場中央の離れ小島のステージに現れた宇多田。迷っているようで眼差しは凛としていた。)

一方で、同じ時代を生きているであろう酒鬼薔薇は、宇多田の歌をどのように聴いているのだろうか。

普段は自分の見知らぬ所でそれぞれが別々で暮らしいているのに、歌や小説や漫画や映画を媒体にすると一方的につながっている気分になれる。

性質の悪い妄想に思われるかもしれないが、自分の世界を見るフィルターには、どうしても2人の視点が影響してくるのは否めない。

けれど、孤独に押し潰されそうになりつつも、他人と同じことができない不器用さには、いまでもシンパシーを感じざるを得ないのだ。

自分がそう見たいだけなのかもしれない。

ましてや、相変わらず自分が何かを成し遂げる見込みなんて、まったく立ってもいない。

だけど、他人と同じことがしたくないという、しょうもないというか大人げない動機であっても、だからこそやれることはたくさん出てくるようにも思う。

そう勇気づけられたと言ってもいいのかもしれない。

そんな風にライブを観て思った。

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(文字通り"音色"を目に見えるようにしたかのような舞台演出)

 

次はどんな世界を見せつけられるのか。

そこに自分は何を見出すことになるのか。

とても楽しみで仕方がない。

 

 

#18年ぶりの宇多田ヒカル

#クレームでもなく提言でもなく