ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

#クレームでもなく提言でもなく

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今朝、通勤中に聴いていたラジオの速報で、川崎で通り魔事件が起きたらしい、ということを知った。

聴いて咄嗟に、川崎に住む会社の先輩の家族のことが思い浮かんだ。

続報のニュースで事件は登戸で起きたと知って、先輩の家族でない可能性が確実になって、ふと胸をなで下ろした。

しかしそれと同時に、はたして自分は何を安心したのだろうか、と自分自身に疑問がわいた。

いや、わいてきた疑問に戸惑う振りをして、己の欺瞞を責めてみたわけである。

事件の被害に遭った本人や家族が、現実に存在しているわけで、「被害者が知り合いでなくて良かった」とは口が裂けても言えない。

加害者に対しても同じように、「加害者が知り合いでなくて良かった」とも言えない。

むしろ、被害者の恐怖や無念さは想像するに難くはない。

そして、加害者がどうしようもない不条理な衝動に、突き動かされてしまったことも、身に覚えがあるからわからないでもない。

とは言っても、加害者が起こしたことは許されることではない。

しかし、加害者を「許す」とか「許さない」というのは、具体的にどういう態度を取ることなのかがわからない。

SNS上で不特定多数の間に触れる場で、加害者を罵ったところで、誰かが救われるのだろうか。

こうした陰惨な事件が起きるたびに考えることだけど、一向に答えが出ることはない。

本当は、ほぼほぼ無関係な方々の身に起きた事件のことだから、無関心で通したい気持ちはある。

けれど、被害者の哀しみや加害者の怒りがそれを許さない。

被害者を守ることができなかったことと、加害者が事件を起こすのを止められなかったことが悔やまれるばかりだ。

先っきまで知らなかった人たちに対して、悔やむだとか烏滸がましいことだと、自分でも思う。

ただ、加害者の衝動を止められる人が近くにいなかったのなら、その衝動に駆られた暴挙から被害者を守る人がいなかったのなら、と想像しては、力になれなかった自分の非力さが悔やまれてならない。

起きてしまったことを取り戻すことはできないし、自分にできることなど極端に少ない。

それはわかっている。不可抗力に等しいことだ。

そう思う一方で、明日は我が身だとも思ったりするのだ。

被害者にも加害者にもその親類にもなり得るし、いまこの瞬間も予備軍なのである。

けれど、いまの自分が「そうならないように」何かをしているのかというと、必ずしも十分ではないし、何もしていないのと変わらない。

初老の男性が生活難を嘆いているのを見れば、ああなりたくはないなぁと思うし、その近くに中学生の甥っ子がいたら「ああならないように勉強してくれよ」と実際に声に出して言いはしないが、少なくとも心の中で思ったりもする。

それは「普通のこと」なのかもしれないけれど、生活難を嘆く男性のことは放置していることに変わりはない。

むしろ放置しているだけでなくて、生活力のない人の暮らしを心の中で侮蔑しては、「自分は幸運な方」と自分を慰めるための踏み台にもしている。

何もしてないどころか、邪険に扱っているではないか。

けれども、そうするのは自分だけではないはず、だとか、"みんなもそうなんだ"と思って、自分で自分を許しては、内在する欺瞞と上手いことつき合っている(ことにしている)のだ。

ちなみに、ここでイメージしている生活難とは、別に経済的な理由だけではない、心身の都合や家庭の事情、地域や宗教などの、どれとは特定できない要因で起きる「生きづらさ」そのものだ。

誰もが感じているであろうものだし、上手にコントロールできている人が大半だから、ついつい理性ある行動を「常識」として強要してしまう。

ふとした瞬間に不条理な衝動に駆られなくもないけれど、上手くコントロールできているのは、味方になってくれる周りの友人や知人の労りのおかげだ。

自分ひとりだけの手柄ではない。

だから、もし「自分には誰も味方がいない」という人がいたら、標的にならなかったことを良しとして、己の存在感を消すのではなく、せめて「そうなの?」と声をかけられたらと思ったりもする。

そう簡単に他人の味方になんかなれはしないとは思いつつ、そうすれば理不尽な暴挙は止められる気がするのだ。

甘い考えだろうか。

いや、実際、そう考えていても十分にできていないのだから、甘い考えなのかもしれない。

しかし、周りの誰かと自分を比較して感じてしまう「孤独」は、かなり厄介なものだとわかっているからこそ、何か方法はないものかと考えてみたいのだ。

できれば一緒に考えてみてはもらえないか、とか思ったりもするけれど、どうしたらよいものか。

こうしてまた自虐を装って、己の無能さを免じようとしているのだろうか。

哀しみや憎しみに居場所を与えていたのは、少なからず自分も関わっていると思うだけに、己の欺瞞に嫌気がさしてくる。

 

まだ上手いこと整理はできていないけれど、

「こうした悲惨な事件が起きませんように」と願う相手は、神様とかどこかの誰かにではなく、自分に対してなのだと思う。

 

 

#クレームでもなく提言でもなく