ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

#クレームでもなく提言でもなく #感覚的に生きることと感情的に生きることの違いについて

五十嵐大介先生の漫画『海獣の子供』がアニメーション映画化された。

自分は五十嵐大介先生の漫画のファンなので、あのオリジナリティ溢れる絵をどうアニメーションとして動かすのか、心配と期待で半々の気持ちで見た。

アニメーション映画の感想は、また別でちゃんと記そうとは思うが、観る前の心配は完全に杞憂だった。

それはアニメーション技術を完全に舐めていた証にもなったし、期待の内に思い描いていた世界観は、その数万倍の密度で描かれていて、己の想像力の貧弱さと合わせてただただ圧倒された。

 

しばらくは一人で頭を混乱させていたのだけれど、整理をしようとしてしては、なにかしらの答えを求めてしまった。

ほんとに悪い癖で、自分でも嫌になっているんだけども、気づいたら、他にこの映画を観た人の感想があれば、とSNSを検索するのに一生懸命なっていた。

 

その中で行きあたったのが、今回観た映画『トゥレップ』の情報だった。

映画の公式アカウントが共有していた情報だから、「行きあたった」という表現は、随分と大げさなことなのかもしれない。

海獣の子供』のスピンオフ作品として、アニメーション映画と同じ制作会社が、ドキュメンタリー映画を制作して上映しているらしい。

ドキュメンタリー映画の方の公式HPを観てみれば、原作者の五十嵐大介先生にインタビューした映像も含まれているようだ。

これは観るしかない、とすぐに思ったのだが、上映している映画館がかなり限られていた。

きっと上映される期間も短いのだろう。

だから多少は無理をしてでも急いで行こうと思って、実際、先々週に仕事の合間を縫って観に行ったのだが、日頃の疲れもあって上映の途中に寝てしまったのだった。

やはり無理はするものではない。

しかし断片的な記憶はあって、かなりのインパクトのある話を聴いた憶えはあるのだが、それがすべてでないことがすごく勿体無いことのように思えてならなかった。

自分のせいなのだから文句を言う先が無く、悶々とするばかり。

ただ、断片的な記憶から、目から入ってくる景色の見え方が少し変化していることに気づいた。

景色が目の表面に引っ付いている感覚。

これは何なのか。

早々にリベンジするべく、2回目の鑑賞をすることにした。

この映画では、生物学や人類の進化、神話に宗教的思想、考古学や歴史、精神医学や身体芸術、言葉と言葉を用いないコミュニケーションなど、その手の研究者の話が聴く側の理解の有無など気にせず、次々と展開されていく。

そんな決して易しい映画ではないので、2回目でも満足できるかどうかはかなり怪しい。

これを記しているうちに、記憶から抜け落ちていくものも多々あるような気がしてならない。

なので、ここからは映画の中で聴いた話を、思い出した順で断片的に記していこうと思う。

映像に映る様子から思い浮かんだことや、自分の解釈が多分に入り込んだら要約が過ぎる点はカッコ()でくくった。

読みづらいかもしれないが、読んでもらおうと思って書くのも難しいので悪しからず。

あとで、まとめる時間があったら編集しようと思う。

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漫画家:五十嵐大介

・海の中のことはよくわからないので、山の中を歩いていた時の感覚を思い出しながら、『海獣の子供』の漫画を描いていた。

・山の中も海の中と同じように立体的な世界。

・木の上には風が吹いて、落ちた雫は山肌を流れて川になる。

・岩手で農業をしようと決めたのは、自分に生きる力が圧倒的に無かったから。

・農業は未経験。

・さすがに本を読んで勉強してから行ったが、気候も土地も違うので応用を効かせないとならなかった。

・初めてのことで応用が効くことは稀。

・冬の寒さが嫌になったら止めようと考えて始めた。

・けれど人の助けもあったりして、意外と続けることができた。

・生命の不思議と縁の不思議。

美大の予備校に通っていた頃に、近くの神社の境内でボーッとしていると、視界が渦を巻く幻覚を見た。

・いまの科学では見えないことは絶対にあるはず。

・ほんの数百年前までは微生物の話など妖精の話と同じ類のものだった。

・いまの科学では説明できないからといって、頭ごなしに否定するのはおかしい。

・しかしそれは自分も「答え」だとは思ってない。

・「じゃあ 何なのか」と漫画を描きながら考えている。

・考えている過程を描いている、とも言える。

 

獣医学博士:田島木綿子

・鯨は哺乳類で人間とはかなり近い生物。

・いまの鯨に脚はないが形として見えていないだけで、脚となる構造はいまでも有している。

・何かの拍子で「脚をつくりなさい!」と言えば、たぶん鯨は脚をつくれる。

・何百年前に陸から海に入った鯨の祖先の哺乳類の名残は、いまでも消えてはいない。

・人間を含めた哺乳類は海から陸に上がってきた種。

・受精卵から細胞分裂を繰り返して胎児になる過程で、魚の形をする段階がある。

・進化の過程を胎内で繰り返しているように見える。

・人類は生物としては「終わってる」種。

・知能は高いけれど、生存能力や身体能力的には他の種より劣っている。

・人類は「種」ではなく「個」として生きることを選んだ。

・人類以外の生物は生死について淡々と受け止めている。

・仲間が狩りに遭ったとしても、敵に復讐することはまず無い。

・ライオンなどは親が子殺しをすることが頻繁にあって、母ライオンは子が殺されるとすぐに発情して繁殖できる体になる。

・人間ならば、仲間や自身が敵に攻撃されようものなら、助けようとしたり復讐心や恨みの感情を抱くのが普通だ。

・これらの違いをもって、人類以外の種の知能が低いと言う研究者もいる。

・しかし、種としてどちらが生存戦略に長けているかという観点で見ると、人類の方が劣っているので知能が高いことが何になるのか、とも思える。

・進化の進んだ人類は頭部が巨大化すると見られている。

・劣った身体能力は捨て、それらを補うように知能を発達させると考えられているからだ。

・しかし知能だけを発達させることが、幸せにつながるかというとそうでもないと思う。

・だから研究者には延命治療を選択しない人が多い。

・種として生存することを選択した彼らと、個として生きることを選択した我々はわかり合えないかというと、元々は同じ生命から分派してきたモノ同士わかり合う術はあると思う。

・まだ我々は理解しきれてはいない。

・私は昔、シャチの群れに襲われたアザラシを、自分の胸に乗せて助けた鯨を見たことがある。

・その鯨は仰向けになったままアザラシを乗せて泳いで逃げた。

・助けたように見えただけかもしれないが、なんで鯨がどうしたのかさえも我々はまだわからない。

 

生物学者:長沼毅

・人間が深海の生物とその環境の様子を知ってから、まだ100年かそこら。

・海の中は均一のように思っている人は多いが、モザイクのように異質なもので構成されている。

・水質に水温や流れ、水圧の違いがあって、それぞれの環境は全くの別物で、生存する種も異なっている。

・鯨は遠くの海域にいる鯨と歌で交信をする際には、それが響いて届きやすい水深を選んで歌っている。

・人間にはその違いがわかりにくいのだが、見えているものがすべて同じに見えるせいなのだろう。

・人間の目は三原色で世界を見ているが、魚の目は4原色で見ている。

・きっと見えているものは違う。

・生命とは何かを考えると、エネルギーを活動させているものを見ると生きているように見える。

・だから台風の動きは生きもののようにも見える。

・けれど、台風が生物ではないのは、増えることがない点と進化しない点にある。

・台風は生まれては消えて種として増えはしないし、勢力が増すことはあれども「台風」は「台風」のままで、猿から人間に進化するのと同じようなことは起きない。

・こうして、エネルギーを活動させ、数を増やし、進化するのが生命だと考えられる。

・しかし、生命はなぜエネルギーを活動させ、なぜ数を増やし、なぜ進化するのかはわからない。

・進化は突然変異が重なった末に起きている変化だ。

・種は同じように見えて、それぞれに異質なものを含んで生まれている。

・人間社会ではその異質さ故に生きづらさを抱えることもあるが、種の生存戦略としては妥当なことだったりする。

・いつかは人類の中にも水の中に入っていく一族は出てくるかもしれないし、過去には既に海の中へ戻った人類の一族がいたとしても不思議ではない。

・人類の知能は高く、遺伝子操作によって種の創造もコントロール可能になりつつある。

・人類は何を選択させられ、何を選択するのか。

・スーパー進化、もしくはハイパー進化が起こり得ることもある。

 

理論物理学者:佐治春夫

・宇宙にあるものは、だいたい相似でできている。

・木の幹から伸びる枝がすべてY字形を成すように、全体の中に部分があり部分が全体を成している。

・渦巻きはその最たるもの。

・近くで中心を見ると渦を巻いているし、遠くから全体を見ても渦を巻いている。

・宇宙の天体も渦を巻きながら構成されているし、遺伝子配列も渦を巻いているでしょ。

・DNAから銀河までのすべては「r=aθ」で表すことが可能。

・宇宙の営みは渦を巻いて、その渦の中から星々が生まれ、地球上に生命が生まれて人類が生まれたわけで、すべての営みは相似を成しているとも言える。

・仏教ではブッダも宇宙の営みから生まれた我々が、宇宙のことを理解できないわけがないと考えていたようだ。

・海から陸へ上がった人類の祖先と、海の中に残った祖先は生物として異なる生物となったように、宇宙へ行った人類は地球上に残った人類と異なる生物種になっていくのかもしれない。

・宇宙飛行士たちが、宇宙へ行った瞬間に価値観が変わってしまい、戻ってくると宗教観さえも変わってしまうのも似たことだ。

・いまはその過渡期に当たる。

・科学ではだいたい半分のことは予測できるのだけれど、半分のことは予測できていない。

・半分のことは予測できていない方がおもしろいと思う。

 

精神科医名越康文

・医学の進歩はかなりのスピードで進歩している。

・医者も追いつくのに必死になるほど、医療技術は進歩している。

・ただ医療技術の進歩のスピードに追いつくのに必死で、「治療とは何か」という医学の一部分はおざなりにされている。

・いまの医療は兎にも角にも「生きさせる/死なせない」技術に特化している。

・意識のないまま延命治療で生かされている患者にとって、生命とは何なのかは特に考えられていない。

・そのせいか「命とは何なのか」ってことの輪郭がボヤけてきた。

・命を理解するには、理屈よりも感覚を必要とするのだが、顧みられる機会が敢えて設けられることは少ない。

・いまは理屈を大事にしているが、それは個々の成果を評価しないとならないから。

・ひとりひとりの成果を同じ評価軸で比較することを課題にしている。

・しかし例えば、同じひとつの映画を、あらゆることを理屈っぽく考える人と、あらゆることを感覚で捉える人にそれぞれ観せると、まるで同じ映画を観たとは思えないほど違った話が聴ける。

・同じ映画を観たところで、その体験はそれぞれの個人のもので厳密に見れば「同じ」ではないのだ。

・個々の人間は驚くほど違う。

・「同じ」ってのは人間のつくった幻想とも言える。

・実際には存在しない「同じ」を、それぞれがイメージして成り立っているのがいまの社会。

・幻想を抱きながら人間関係を築こうとするのだから、現実はそうそう上手くいくわけがない。

 

水中表現化:二木あい

・自分は長く水中で息を止めてられていられるとか、深く潜れることを求めてはいない。

・記録に重きを置いてはいない。

・いかに理屈から感覚へと重きを移すのか。

・海中に入る時はどこか気の引き締まる感覚がある。

・人間の祖先が海から離れてから、ずっと海中に生きてきた生物たちの世界にお邪魔する感覚で、敬意を表したいという思いもある。

・水の中に入った瞬間に、身体が陸に上がる前の身体を思い出すかのような反応をする。

・血液は手足の末端から内臓や頭に集中させて、人間の身体も水中で暮らす海洋哺乳類と同じ身体に変化する。

・面白いのは身体が勝手にそう反応するところ。

・初めて水中に入った人であっても、何も教えてもいないのに同じ反応をする。

・まるで太古の祖先の身体のはたらきを、身体が憶えているかのように思える。

・鯨と一緒に泳いだとき、その目を見たら、昔からのすべてのことを見てきたかのような深い目をしていた。

(・海の中では太古からの記憶が受け継がれているのかもしれない。)

・水中では、波動のスピードは空気中の4倍の速さで進む。

・地上と同じ感覚で振る舞うと、海水の流れや温度の変化や他の生物たちの変化に反応ができない。

・水中で他の生物を前にして、何かモノを考えようとした瞬間には既に相手にも伝わっている。

・その判断や感情は自分で言葉にする前に、もっと言うと自覚する前に、水中では相手に伝わってしまう。

・だから、なるべく感覚的になるようにしている。

・なにも心配はいらないのだ、と心をそのままでいる必要がある。

・水中の生物たちに、わたしの抱く不安や心配などの感情を察知されると、彼らと交流することは難しくなる。

・人間は心が弱いから、すぐに感情や意識に頼ろうとする。

 

人類学者:中沢新一

・人類は集団生活をする中で狩猟や稲作によって飢えを回避し、都市や工業を発展させて暮らしを豊かにすると、いかに人間関係を築くべきかという問題に行きあたった。

・科学的に「自己」なんてものは存在しないと証明されても、なお個々人の悩みは尽きる様子はない。

・しかし科学が今後も発展していくのならば、そのうち「私」や「人間」という概念がなくなるのだと思う。

 

 

自分はこれまで「感覚的に生きること」と「感情的に生きること」を、ずっと混同していたようだ。

後先を考えずに選択して行動することは、確かに勘に頼ってのことではあるが、感情に任せた行動ではない。

感情に任せた行動は、どちらかというと停止や停滞の状態と言えるのかも。

よくわからないものと対峙すると、怖くなったり不安になったり、驚いてハイになっては悦楽に溺れたりして、心が実態以上に肥大する感じはわからないでもない。

よく刹那的な生き方は批判の対象になったりするけれど、それが何故なのかはよくわからなかった。

あと、命を大切にすることとは、一体、どういったことなのか。

野生動物のようにあるがままに生きる、とは。

やりたいことだけやる、ということと、衝き動かされるままにやる、ということの違いとは。

ずっと、はっきりとはわからないでいたけれど、たぶん、心に頼らないことなのではないかと思う。

目に見えてくる景色が変わったように思えたのは、心で受け止めるのをやめたからなのかもしれない。

人間の言葉や感情では捉えきれないものが、この世の中には満ち溢れている。

理屈や感情を否定しているわけではないのだが、それが全てではないと思うと、身体の内側から力が湧いてくるような気がしないでもない。

個として生きるということの自由さ、というか。

そこに理屈は無いらしい。

 

 

#クレームでもなく提言でもなく

#感覚的に生きることと感情的に生きることの違いについて