ウォンバットの黄金バット

いろんなバットちゃんです。

#クレームでもなく提言でもなく

先日、よく行っていたお店の学生バイトの子から連絡があり、留学から帰ってきたので小さい個展を開くというので観に行ってきた。

渋谷区の住宅地にある喫茶店の本当に小さいスペースで、映像作品が展示されていた。

玄関の下駄箱ぐらいの大きさだろうか。

スペースがスペースだけに大した作品は置けなかったようで、留学期間に現地で撮影した写真を現像し、映像として観せるというシンプルな作品だった。

本当のところ、現地で描いていた作品が観たいと身体はあったが、展示スペースを借りるのにも資金が必要だから仕方がない。

写真の多くは異国情緒溢れるもので、どこかで観たことのある構図のようにも見えたけど、でも決して現実には目にしたことはない場面が続く。

留学していた間に観ていた時間が再現されていて、簡素ながらも簡潔な作品になっていたように思う。

 

面白かったのは、いずれの写真のサイズも小さめだったことだ。

L判写真を2分割にして現像したのだというが、スマホSNSで見る写真と近い大きさなので、どこか「いま風」の馴染みの良さがあった。

単に節約のためで狙ってはいなかったことのようだが、小さい画を観ることに慣れてしまっていることに少し驚いた。

日常の様々な場面をスマホのレンズで切り取って、SNSに共有することを繰り返してれば、当然のことではあるのだけれど。

知らぬ間に自分の目が、スマホSNSの目と、置き換わってしまっていたように思えた。

インターネットが無い時代のころには、世間というものは目が届く範囲のものでしかなかったが、いまは手に余るほどに大きなものになった。

おかげさまで、大きな世間に繋がりやすくはなった。

けれど、身近な瑣末な事柄には疎くなったし、目に付くものはすべて、SNSリテラシーに沿って見てしまっているような気がする。

しかもスマホ大のサイズに縮小されて。

目に映る世界はもっと広大で奥行きもあるものなのに、頭の中でわざわざ大きくイメージし直したりしてる。

よくよく考えると、つまらない話である。

自分だけに見えている世界を失ってしまったようでもあり、まるで誰のものでもない世界観に侵されるかのようだ。

それは最初から無かったものなのかもしれないし、立派なものでもないのだけれど、なんとなく喪失感が感じられてならない。

自分が納得するような成果を、なにも残せていないから余計に感じてしまうのかも。

 

こうして文章にして書き出すことで、ひとつ区切りをつけてリセットできるとよいのだが。

 

(ココア専門の喫茶店で居心地はあまり良くなかった)

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