#清々しいまでの性生活 #クレームでもなく提言でもなく #記憶の中の伯林漂流を確かめに
以前に書いた映画『伯林漂流』が再上映されるということで、またいつ観られるかもわからないこともあり、記憶に止めるためにも観に行ってきました。
前回の上映時期はお盆直前。
墓参りのための帰省を遅らせてまで、真夏日の朝から観に行った映画。
今回は年の瀬の上映。
脚本の田亀源五郎さんと監督と音楽担当のスタッフさんのトークショーのある回を目当てに、大掃除を中断して観に行くことにしました。
また実家へ帰るタイミングを遅らせることになりそうです。
観終わったいまは、ただただ胸いっぱい。
二度目の鑑賞だけれども、相変わらずセックスシーンはエロくて勃起しっぱなしだったし、前回は雰囲気に酔って気づかなかった話の筋や、描写のディテールに気づくことができたように思います。
監督と田亀さんの製作裏話を聴いて、さらに胸熱な感じに。
しかし、二度目の鑑賞後の感想については、別途書きたいと思います。
その前に、前回アップした鑑賞記録に多々誤りがあったので修正しておきます。
※前回の鑑賞記録※
http://bat-warmer.hatenablog.com/entry/2018/12/23/004604
主に物語のあらすじに話の前後や記憶違いがありまして、観ている間、ずっとヤキモキしていたんです。
これを踏まえて二回目の感想を書くつもりです。
前回の記録を読まれた方には、時間を無駄にさせましてお詫び申し上げます。
今回の記録の方が、より正しい内容になってますので、こちらを参考にしていただけると幸いです。
※ご注意※
以下よりネタバレを含む内容になっています。
デスマス調も終わりです。
配給元HPでは公式のあらすじが読めます。
http://www.shiroari.com/habakari/bd/BerlinDriftersJ.html
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記憶の中の『伯林漂流』(を確かめに)
この映画に出てくる人物たちは、外国からベルリンに来た人物ばかりだ。
みなそれぞれ理由は違えども、何かしら自分の人生を考えてベルリンまでやって来たようだった。
主人公のコーイチは、ベルリンで遊学をしている様子の40代後半から50代前半で中肉中背の男性。
特に毎日仕事をしている感じでもなく、現地のバーで知り合った友人などと、外国の地でもそれなりのコミュニティーを築いているようだ。
あるシーンでMacBookのディスプレイにMRIの画像が並んでいたので、リモートワークで画像診断をする医師か検査技師の仕事をしているのかもしれない。
英語と日常生活には困らない程度のドイツ語を話す様子から、それなりの収入があった(もしくはある)人物らしい。
随分と気ままな暮らしをしているように見えるけれど、表情はどちらかというと鬱々としていて決して明るくはない。
時折、彼のスマホにしきりに鳴る着信には一切出ようとしないところを見るに、発信元の誰かから距離を置くべく、訳ありでベルリンに来ていることが伺えた。
その主人公の元に居候するリョータは、インターネットを介して知り合い、スカイプで交流を深めていた"恋人"を求めて、東京からベルリンまでやって来た。
見た感じは二十代後半から三十代前半の若者だが、話す口振りは幼さが残り、天真爛漫な性格をしている。
わざわざベルリンまで"恋人"として来たというのに、一晩寝ると相手の部屋を追い出されて途方に暮れていたところだった。
想定外に追い出されてしまった後、リョータはヤケを起こしたかのように、現地のバーの地下の"ヤリ部屋"で複数の白人に掘られまくる。
外国の地で頼りにしていた"恋人"に追い出され、泊まる場所さえなくなるという、結構なピンチな状況だ。
それにも関わらず、セックスができればそれだけで幸せなの!とでも言いたげなほど、リョータは思い切りのいいセックスをヤリ部屋で繰り広げていた。
偶然、同じバーに遊びに来ていたコーイチは、白人に掘られながら恍惚な表情を浮かべるリョータを、野次馬の一人として目撃する。
コーイチが事後のリョータに声をかけたのは、単なる日本人のよしみからだったのかどうか。
とりあえず、リョータに何かしら惹かれた部分があったのだろう。
白いスニーカーと白いケツ割れ一丁のまま、黄ばんだ白いマットの上に汗だくで横たわるリョータにコーイチは水を与える。
バーを出て一緒に帰りながら、リョータは恋人に振られてバーに流れ着くまでの顛末をコーイチに打ち明ける。
その様子を包み隠さずケラケラと話すリョータだったが、行くところが無くて困っていると語るときだけは、気を引くようにうな垂れて見せるなど、生まれ持った"あざとさ"を見せつける。
それを少なからず下心のあるコーイチは断り切れるわけもなく、自分の部屋に迎え入れることになった。
こうして"何か"から逃避するためにベルリンに来ているらしいコーイチと、ベルリンに到着した早々に夢の破れたリョータは、こうして同居することになったわけだ。
しかし"同居"とはいっても、それは一般に言う"同居"とは異なり身体の関係付きのもの。
二人はコーイチのアパートに到着すると早々に、さも約束していたかのようにセックスをし始める。
コーイチは当然の流れであるかのように、リョータの唇を吸い寄せ、二人は互いの身体を重ね合わせては全身への愛撫を繰り返す。
その様子はまるで、長年会っていなかった恋人同士が、やっと再会できたかのように激しい熱情を伴ったセックスで、深い吐息と互いの身体にまとわりつく体液が発する光と音が、二人の淫乱さを観ている側にも伝えてくる。
けれども、二人は先っき知り合ったばかりで、互いのことなど、よくは知らないってことは忘れてはいけない。
おそらくは、特に好き合ってもいないはず。
リョータにとっては宿賃の代わりに身体を差し出しただけだし、コーイチも若者を弄ぶことに何の執着もなさそうな振る舞いだった。
それなのに、かくも濃厚なセックスができるのはどうしてなのか。
有無を言わさずリョータの身体を貪るコーイチと、それをリョータは表情を火照らせながら受け入れる。
単に暇を持て余したからであって、体裁を整えるためだけのセックスは、ヤってもヤらなくてもよいセックスとも言える。
それは、自然の流れでの出来事であれども、全く必然性のないセックスでもあった。
こうして会ったばかりの中年男性と若者の性交は、仲睦まじくも互いに深入りすることなく平和的に催された。
見ている自分は、てっきりこのまま「同居」から「同棲」に昇格するのかと思わされたが、二人の生活は、そんなつまらない自分の予想に反して展開されていくことになる。
翌日、リョータは昨日追い出された"恋人"に気持ちを確かめに行く。
昨晩は欲求不満の捌け口として、互いに利害が一致しただけで、リョータとしてはかの"恋人"のことを忘れられてはいなかったのだ。
"恋人"には、セックス以外の関係を期待していたリョータだったが、"恋人"はセフレとしての関係を求められてしまう。
リョータの(二重の意味で)甘い期待は脆くも崩れ去った。
さすがのリョータもうな垂れて部屋を出て行く(その不機嫌になる様子は子どもそのものではあったが)。
コーイチとランチをしながら、改めて事の顛末を話す。
ベルリンに来た理由が無くなったリョータは、すぐに日本へ帰るのも惜しく感じ、しばらくコーイチの元で身を寄せることを願い出る。
コーイチはその願いをおちょくりつつも、嬉しそうに受け入れる。
その顔は一人でいる時の沈んだ雰囲気は微塵も感じさせず、柔らかい表情だった。
しばらくは自分の元にリョータが居てくれる、そのことでこれまでの孤独や不安が癒えることに、コーイチは期待していたのかもしれない。
その日、コーイチはリョータに宿賃の代わりだと言って、またセックスをはじめた。
これからしばらく同居する事が決まった後のセックスは、昨晩とは違ってどことなく余裕さを漂わしているように見えた。
ぶつかり合う情動みたいな雰囲気は消え、例えるならば歯車を合わせるかのように互いの身体を貪りあうものであった。
しかし、それがコーイチの浮ついた期待でしかなかったことは翌朝明らかとなる。
リョータはアプリで"リアル"の約束を取り付けては、ひとり出かけて行ってしまうのだった。
コーイチが一緒に出かけないかと誘っても、リョータはそれを断ってリアルに出かけ、セックスをしてはコーイチの部屋に帰ってくる。
この間 振られたばかりだというのに、どうやら本気で新たな"恋人"を探しているようにも見える。
同居に期待していたものとは大きく外れ、以前と同じように部屋でひとり取り残されるコーイチ。
その様子は以前よりも増して孤独感を漂わせるようになっていく。
初めのうちはコーイチも、そんなリョータの行動を半ばどうかしていると思いつつも、最初は大人の素振りで理解を示してはいた。
家主と居候という関係でしかなく、それはセックスのポジションにも反映されて、体裁を整えることで自分の孤独を押し隠しているように見えた。
そんな二人のセックスは、リョータがその日にリアル相手と致してきたセックスを、コーイチがヒアリングしながら再現プレイする、というものだ。
青姦にカーセックス、オフィスに地下通路で、リョータが日替りのリアル相手としてきたセックスを、前戯からフェラ、挿入や体位までの全てを、コーイチの部屋で再現するのだ。
それはコーイチにとって、リョータを理解するためのことでもあったし、リョータに理解があることをアピールするためのことでもあったのだろうか。
しかし、側から見ている限りは嫉妬そのもので、自分だけ良い思いをさせてたまるか、とでも言いたげな様子で大人げなさをも伴っていた。
またそれは、リョータの気持ちを引き寄せるほどの魅力が自分には無いということに、コーイチはセックスを繰り返す中で痛感させられることでもあった。
リョータが外で致してきたセックスの記憶を、せっかく自分の存在で上書きしたところで、次の日には別の男によってまた上書きされてきてしまう。
そのうち、コーイチは自己嫌悪のような嫉妬のような行き場のない不満を、次第に抱いていくようになる。
身体は交わっているのにも関わらず、想いは常に一方通行であるようで、リョータの若さに中てられたコーイチの悲哀に、見ている方も心がヒリヒリとさせられた。
あくまでも身体だけの関係であることを前提にしたのは、二人とも利害が合致することであったのだが、それは互いに一方的な思い込みでもあったわけだ。
割り切った気持ちから始まった関係なのだから、それは無理もないことだし、ましてやコーイチも心の底からリョータのことが好きなのかというとそうでもない。
だから、執着する必要もないはずなのだけれど、嫉妬やプライドが邪魔をするのだろうか、コーイチの大人げなさは助長されるばかり。
いつしかリョータの奔放な行動や物の考え方に対して小言を発するようになる。
しかし一方のリョータは、コーイチの自分に対する不満を全く意に介する様子を見せない。
その振る舞いが若さゆえの意気がったものなのか、元来の性格による奔放さなのかはわからない。
けれど、リョータにとって、コーイチとのセックスは宿賃の代わりでしかないし、外でセックスをしてくるのもコーイチ以外の選択肢を求めてのことでしかない。
倫理的かどうかというのは問題ではなく、自分の満足のいく生活のために、いつかは運命の人に出会えるはずだと、男を取っ替え引っ替えしてヤリまくるリョータ。
そんな一見 破天荒なポリシーは、スクリーン越しに繰り返し見させられると、次第と合理的な考え方にも思えてくるから不思議だ。
こうしてコーイチとリョータは、文字通りの「身体だけ」の関係を続いていくものの、信頼を寄せ合うことはなく、逆に離れていく一方だった。
なにも約束が無いからこそ、表面的な諍いも何も生まれない。
しかし、リョータはついに新たな"恋人"のオランダ人の男性と出会ってからは、コーイチの不満が少しずつ溢れ出すようになる。
リョータがオランダ人男性とリアルする頻度は増えて行き、デートからコーイチの部屋に帰れば、リョータは嬉々とした表情で"運命の人"への想いを語る 。
コーイチも初めのうちは、この間振られたばかりだというのに、何が"運命の恋人"だと、無邪気に話すリョータを大人の振る舞いで聴いていた。
しかし、リョータの浮かれた恋愛観のトークは、コーイチにとって、自身がリョータの運命の人になり得ないことを宣言されているのも同然のことでもあった。
我慢ならなくなったコーイチは、リョータを「いい加減だよ」と叱責する。
しかし、"建前"の関係を徹底するリョータには、急に小言を言うコーイチの真意が理解できない。
むしろ、ただの嫉妬であると理解に値しないものとして笑って流し、コーイチの感情をフォローすることなく、また「運命の人」の元へデートに出かけて行く。
無邪気におしゃべりを続けたリョータではあったが、コーイチの小言には明らかに嫌気を感じているようだった。
こうして薄皮一枚で繋がっていた二人の利害は、コーイチが本音を語ったことでだんだんと切れかけていく。
デート帰りのリョータに、コーイチが再現プレイのセックスを求めても、ヤリ疲れているからと断られるようにもなった。
若者を弄ぶつもりが、逆に利用されていたのだろうかという疑惑と敗北感が脳裏に去来する。
コーイチがリョータに取り付く島もない様子は、ただただ哀れな姿だった。
その翌日もデートに出かけるリョータを、コーイチは嫌味な物言いでおちょくるなど、大人げなさに拍車がかけるばかり。
リョータもイラッとした態度を隠さないようになった。
しかしそれでも、コーイチはその晩もリョータが帰ってくるのを待ち、嫌味を言いつつも吸い寄せられるかのようにセックスを求めてしまう。
けれど、度重なる小言に辟易とし始めたリョータは、コーイチに仕返しをしようとするべく、ある提案を持ちかける。
それは、これまでのポジションとは逆に、コーイチを受けにしてセックスを再現することだった。
目隠しをして両手を縛ったまま陵辱を加えるというプレイは、コーイチとリョータの関係性を逆転させるものでもあり、リョータがコーイチの自由にはならないことを訴えるための行為にも見えた。
これまで関係性にこだわっていたコーイチの理性を、感情に任せて解放した瞬間のように見えた。
いまでも自分は、その晩のセックスの終わりにリョータがコーイチにかけた言葉と表情が忘れられないでいる。
「コーイチさんってウケもイケるんだねぇ。もっと早くしてあげればよかったねぇ。」
そう声をかけるリョータの声は社交辞令的な響きを持って、薄ら恐ろしく感じられるものだった。
そしてその表情もまた、人の弱みを握ったかのような薄ら笑いが浮かんでいるように見えた。
ただ、セックスの高揚感からそういう表情になっていたのかもしれない。
しかしそれは、リョータの心の機微には一切触れることができないことを、予感させるのには十分な言葉だった。
そう言われたコーイチも色が急に冷めたのか、「もういいからやめてくれ」と言って、挿入したまま果てたリョータに離れるように促す。
しかしリョータは続きがあるのだと言って、バスルームに移動し、コーイチの顔に放尿して笑う。
嫌がるコーイチの様子を見てリョータは、なんで?興奮しないの?どんなセックスをしたのか聞いたのはコーイチさんでしょ?と追い討ちをかける。
コーイチは、己の気持ちはリョータには届かないのだと諦めた瞬間だった。
そんなセックスの後、リョータにかまうことをやめたコーイチの気持ちは、リョータに会う前のように、またベクトルが定まらなくなってしまったようだった。
リョータはリョータで"運命の人"の元で暮らす約束を取り付ける。
もちろんコーイチにそれを止める気力も権利もない。
その夜のうちにリョータは、荷物をまとめて出て行ってしまう。
それを寝たふりをしながら様子を伺っていたコーイチ。
二人の同居生活は、実質仲違いの形で終了する。
その目は何も見えてないかのように虚そのもので、同時に別の何かを思い出しているようでもあった。
翌朝、一緒に寝ていたベッドのスペースはぽっかりと空いたままだった。
リョータの存在を探るように、枕に顔を埋めて弄るコーイチ。
枕の下からは、昨晩、自分の中で果てたリョータの精液の入ったコンドームが出てきた。
空っぽになった心を持て余すかのように、リョータの精液を手のひらに広げる。
すると空っぽになった心の隙を突くように、スマホの着信音がまた部屋に鳴り響く。
これまでは頑なに出ることはなかった着信に、コーイチはすべてを観念したかのように電話に出る。
相手はベルリンに来る前に、日本で別れた元彼のミオオだった。
ベルリンの空港に着いたところなのだという。
コーイチは急な展開に戸惑いつつも、元彼のミオオを自分の部屋に迎え入れる。
話を聞けば、元彼がベルリンまでやって来たのは、コーイチの母親が倒れて入院したので呼び戻すために迎えに来たとのこと。
何度も鳴らした携帯の着信も、それを知らせるためのものだったようだ。
年老いたコーイチの両親には、海外にいる息子へ連絡を取るのが難しかったのか、他に為す術もなく付き合っていたミオオのことを頼ったらしい。
早く着信に出ていれば。元彼のことを許すことができていれば。過去のことから逃げなければ。両親への気遣いを怠っていなければ。
いろんな"たられば"の感情が湧いてきては、コーイチは、自分がベルリンに来た理由を空虚なものに感じられたのか呆然とするばかり。
先日までのリョータとのことを忘れるためにも、その感情を加速度的に大きくさせたのかもしれない。
その瞬間、回想シーンが一挙に展開し、ミオオとの関係からコーイチがベルリンに来た経緯の大体が説明される。
コーイチにとっては思い出したくもなかった記憶であろうことは、簡単に見て理解することができたし、スマホの着信にも出なかったのも十分に納得がいった。
※ご注意※
ここから更にネタバレになります。
仲睦まじい関係だった二人が別れたのは、ミオオの度重なる浮気とセックスによって、HIVに感染したことがきっかけだったようだ。
それこそリョータと同じように取っ替え引っ替え、見た目もステイタスも異なる男を相手に、ミオオがセックスを繰り返す様子がスクリーンに映し出される。
ポジションやプレイも代わる代わるで千差万別という具合。
こんだけヤッていれば何かしらの性病に感染するのも無理もない、と思わせるほどに、十分な回数と相手の数だった。
むしろコーイチと付き合っていながら、よくぞこれだけセックスする時間を作れたもんだと感心してしまうレベルだ。
コーイチもHIVに感染しているのかどうか、明確には描かれていなかったが、感染に至るまでの経緯を元彼には聞いていたのだろう。
それらはコーイチが日本から遠くのベルリンまで漂流するのに、十分な理由のように感じられたし、リョータのことを凌辱するようにアナルを掘り上げていた理由にもどこかで通じているように感じられた。
元彼のことなど忘れることもできず、そして許すこともできないまま、ベルリンに来ても消えないわだかまりに悶々としていたコーイチ。
ハッテン場で白人に回されているリョータを見たときには、きっとミオオの姿とダブって見えたのだろう。
コーイチはリョータを弄ぶことで、過去の出来事と距離を置くためのことでもあるのに、ひとつひとつ紐付いているのが気の毒に感じられてくる。
ベルリンでの遊学も、結局は、コーイチが過去に執着している限り、狭い世界に閉じられているばかりのことだった。
ミオオからの報告を聞き終えると、急いで帰国のための荷造りをして、部屋を明け渡す支度をつける。
コーイチの母の手術は明後日の予定で、それまでに帰国するには、当日にでもベルリンから立つ必要があったのだ。
借りていた部屋は家具や家電も備え付けだったようで、最低限の私物をまとめれば良かった。
物がなくなって生活感の消えた部屋で、コーイチが元彼と過ごしていることに、よそよそしさと不自然さが画面いっぱいに伝わってくる。
その夜の便で帰国するチケットも、ミオオが手配して取ってくれた。
出発まで時間があることを知ると、コーイチはミオオとのセックスに興じる。
東京を離れてからの時間を埋めるべく、もしくは、リョータとのベットの上での情事を上書きするためのセックスに見えた。
またそれはリョータとのセックスとは異なり、荒々しさなどない穏やかな愛撫を繰り返すセックスだった。
"運命の人"の元へ出て行ったリョータのことなど、もはやコーイチには心配する余地などなかった。
後の処理をベルリンの友だちに頼んでしまうと、あとは帰国するのみ。
ミオオとバスに乗って空港に向かう。
こうしてコーイチとリョータの関係は、リョータの知らないところで終了することになる。
あんだけセックスをしていたのにも関わらず、何の契りも交わしていないおかげで、その関係の終わり方は呆気ないものだった。
最初からこういうことになるとわかっていたようでもあり、いつでもそうなるように仕組んでもいた結果でもあったのだろう。
リョータのあざとさばかりが目に付いてしまっていたが、コーイチのも似たもので打算的な振る舞いをしていたのだ。
そうした不完全でいることの慢心さは、期待を裏切られても傷が浅くて済む分、何度切りつけられようが我慢してしまえたりもする。
それを試行錯誤と言えば聞こえはいいが、ねらいや目標が定まっていない限りは、ただ現実に埋もれないように悶絶しているだけで、プラスの変化なんて見込めはしない。
自分の日常を振り返っても、そんな映画の二人と同じように、目的や理想は定まらないまま、いろんな人の思惑に影響されがちだ。
そして、自分の意思とは異なる方向に状況が移り変わっていくのを追うばかり。
なにかしらの理想を得ようと別の環境に踏み出したとしても、当初の覚悟は状況次第で簡単に揺らいでしまう様子を、まざまざと見せつけられたように感じた。
なにかを悟ったような他人の態度や度量の深さなども、何かの出来事で変容してしまうほどに脆いものであるらしい。
おかげで、ついつい自分以外の何かに動かされているのではないかと錯覚してしまったりもする。
しかし大体のことは、自分と誰かとの間の出来事のせいなのだ。
普段、見聞きする世の成功譚も、まるで最初からわかっていましたと言わんばかりの語り口が成されたりするけれど、よくよく読み直してみれば、後から正解にしようと努力した結果でもある。
鬱々と上の空で過ごすのも、刹那的に欲望のままに過ごすのも、自然と仕組まれたことなどなく、自分や誰かしらの思惑が働いた結果なのだろう。
「伯林漂流」というタイトルにあるように、この映画の物語は、自分の身を置く場所だけでなく、夢や理想、プライド、黒歴史、恋人、セックス、いろんな要素がどっちつかずで定まることなく漂流していく。
面倒なことは有耶無耶にしてしまえば気楽に生きていける分、見たくないことには蓋をするのに躍起になる様子が描かれていたように思う。
わかりやすいドラマチックな展開が仕組まれてはいないし、恐らくは意図してメッセージ性も薄くした内容だった。
映し出されるのは日常の暮らしとその内に含まれるセックスだ。
当然、そこに描かれる人間劇は普段の自分の暮らしと重なる部分が大きい。
だからこそ、物語に引き込まれてしまったのだろうか。
自分が同族の人間として、登場人物たちの境遇がどうなるのか、少なくとも野次馬的精神から刺激されただけではないと思う。
映画の最後、日本に帰国したコーイチは母が入院する病院へ見舞いに行く。
そこには穏やかな表情で息子の帰りを待つ両親の姿があった。
ホッとするコーイチの心に、両親とミオオからある言葉をかけられる。
そうして、コーイチの漂流は終わる。
この終わりは一時的なものかもしれない。
けれど、関係性にこだわっていたコーイチが、それを乗り越える様子を見られたのは、とても素敵なエンディングに思えた。
片やリョータの方と言えば、程なくして"運命の人"からまたもや部屋を追い出されてしまう。
行き場をなくしたリョータは、観念したかのように再びコーイチの部屋に戻るのだが、それはコーイチが帰国した後だった。
リョータの漂流はまだまだ続きそうな予感を残しつつ、映画の物語が終わる。
この映画を観て思ったのは、自分の思い通りのセクシャリティで生きていたとしても、"ある個人"として地に足をつけて生きなければ、生来の自由は得られないように思えたことだ。
それはたぶん、自分の置かれた状況をあまり良くは思っていないせいかもしれない。
もしもまたこの映画を観る機会があれば、できることならば NOT FOR MEの映画として、動じずに観ることができたらとは思う。
けれど、そういう人間に魅力を感じるかというと、感じられないのだから話は厄介だ。
自分がそうなりたいとも思えない。
もしやすると、自分は選り好みしすぎなのだろうか。
関係性のみに閉じることなく、足枷になることをも人間としての重しにしなければ。
上っ面の言葉を並べるだけでコミュケーションのようなものが取れてしまう分、自分の本音でさえもら有耶無耶にしてしまえることがよくわかったのだから。
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次の感想はもっと短く端的に書きたいと思います。
恐らくは、インターセックスについて書くことになると思います。
#清々しいまでの性生活
#クレームでもなく提言でもなく
#記憶の中の伯林漂流を確かめに